ケニアレポート(2008)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

ケニア日記'08 / 宮城島拓人(内科医 イルファー釧路代表)

UHBに見送られて機上の人になる(9月12日)
その日釧路は大雨だった。前の日には久しぶりの地震にも見舞われ、不吉な幕開けの予感。しかし空港でのオーバーロードの荷物のチェックインも無事通過し、後は定刻どおりの飛行機の出発を待つだけとなる。
今年はいつもと違ってテレビ局の取材がついていた。何週間か前に突然UHB(北海道文化放送)のカメラマン兼ディレクターが尋ねてきて、おもむろにイルファーの釧路とケニアはどう繋がるのですかと質問をしてきたのだ。釧路とケニアというまったく関連性のない地域にどうHIVが関わるのかと聞きたかったのだろう。それはなぜ自分がエイズに関わるようになり、どうしてケニアの医療キャンプに繋がったのか。そして、ケニアの現状を見て自分の生活の場(釧路)がHIVに関して決して安泰な地域ではないと思い始めてイルファー釧路を作った経緯など改めて自分に思い起こさせるインタビューとなった。興味を持ってくれたのか、地域でHIVに関わっているNGOの企画物の構想が浮かんだのか、とにかく私の身辺を長期的に取材することになった。
というわけで、まずはケニアに行ってきますの図。共にケニア二度目になる松山(鍼灸師)、久保清香(保健師)と八度目の私を、自宅の出発から雨の中飛行機が飛び立つまでご丁寧にカメラを廻してくれた。

名古屋での再会と別れ(9月12日)
今年のキャンプが昨年と決定的に違うのは、名古屋の二人の戦友が不参加であることにつきる。
名古屋での再会と別れ(9月12日) ケニアキャンプの日本での最大の協力NGOのイルファー名古屋とニューヨーク本部(稲田先生)との寄付金の使用法に関する認識の違いから私と長くケニアに関わっていた内海先生が参加を取りやめた。同じく長く関わっていた検査技師の森下さんが病気で欠場したことも大きかった。病気は不測の事態であり仕方ないが、この時期に活動の方向性に突然の齟齬が生じるのは痛手である。しかし活動組織が大きくなればなるほど個人的な考えの違いが表出してメンバーの入れ替わりが起こるのは良くあることかも知れず、メンバーが替わろうとも、必要とされる現地での活動を継続していくことの重大さを第一に考えることで今回のキャンプを全うすることと考え直した。幸い、同じイルファー名古屋のメンバーでありながらも、HIV耐性遺伝子の研究をしている山本先生は従来どおり参加してくれているし、国際医療協力の活動経験の豊富な佐藤先生もいてくれるのは心強い。加えて診療経験豊富な内科医の山田先生と、国際貢献に興味のある研修医の寺尾先生(女医)が参加となり、内科の診療はかなり充実したものになろう。検査部門では森下さんのかわりに大阪から森さん(ニューヨークの稲田ラボに留学経験がある才女)、名古屋から青木検査技師が参加、そしてHIV検査キットを提供してくれているインバネス社から村上、宇野両氏がボランティア参加してくれている。検査部門もかなり協力な布陣と思われる。
空港で内海先生はじめイルファー名古屋組に送られながら出国ゲートに向かったが、やはり一抹の寂しさと無念さが心を占めた。稲田先生と名古屋組との確執を融解させるためのキャンプになって欲しいと切に願った。

さあ始まりだ。(9月14日)
ケニアには無事着いた。いつものドバイ経由の恐ろしくトランジットの長い行程であったが、小雨降る土曜日の夕方ケニアッタ空港に降り立った。白いあご髭を蓄えた稲田先生と年齢不詳のドライバーのトムがいつものように迎えてくれた。さあ始まりだ。(9月14日)危惧していた税関もトランクは開けられさえしたけれど無事通過。最近の外国観光客の低迷から、審査が少し甘くなっているのかもしれない。春に勃発した政治的紛争は表面的には穏やかに見えた。部族対立のガス抜きが終わり今は平穏を取り戻したというところか。まあ過信は禁物だ。
さて、今回のフライトでは、ハンディーキャップさんの同行があった。日本滞在中にトキドプラズマ脳症でAIDSを発症した女性を故郷のウガンダまで送り届けるという使命を名古屋グループから受けていた。基本的には佐藤先生が傍で対応してくれたが、移動、排泄に全介助が必要なので、移動は男性陣が、トイレでの排泄介助は3人いる女性陣が担当してほぼ2〜3時間ごとのおむつ交換でなんとかケニアに到着。実際経験してわかることは、飛行機のトイレの狭いこと。ハンディーを持った人が乗るにはかなり優しくない乗り物だと感じた。これも彼女と接することで得た実感。彼女は私たちに感謝してくれるが、私こそこのような経験をさせてもらった彼女に感謝しなくてはならない。彼女はこれから国内線を乗り継いでウガンダへ向かう。家族が空港まで迎えに来ているそうだ。もう逢うこともないだろう。でも、ちょっとした心の交流は私の胸に残る。現地できちんとした効HIV薬を服用し家族と元気に暮らしてもらいたいと願いながら手を振って別れた。
今日はキャンプの初日。朝5時に目が覚めこれから物資の準備だ。いよいよ、始まった。

停電の中で(9月14日)
懐かしのプムワニ村への道は、昨年と変わらぬ喧騒と埃にまみれていた。近代的なナイロビ市中心部からナイロビ川を渡ると突然かわる景色に初めて組が一斉にため息とも驚嘆ともつかぬ言葉を発するのを背中に受け止めながら、冷静を装いつつところどころに咲く紫色の可憐な花(ジャカランタ)を綺麗だと眺める自分がいる。結局のところ私自身、覚悟して構えて第一歩を踏み入れているのだ。毎年のことだ。
停電の中で(9月14日) 今日はHIV陽性者のフォローアップのために、リヤドクリニックを訪れたが、いつもの通り住民は暖かく迎えてくれた。人懐こくやってきては歓迎の握手攻め。びっくりしたことに、部屋が綺麗に掃除されている。先発隊で稲田先生が早くからケニア入りしていることもあろうが、現地メンバーが頑張らないと出来ないことだ。
今年からフォローアップシートはコンピュータ入力にした。陽性が判明してからの経過や薬剤の服用内容、全身状態などのメディカルチェックを一つのエクセルに入力し継続に耐え得るものにするため。四人の医師で二チームに分かれて、診察担当と入力担当を決めた。今日来院した感染者はほとんどが抗ウイルス剤を服用しており、服薬率もかなり高いとの印象をもった。おかげで症状の少ない元気な人たちが多かった。薬をただで供給を受けそれなりにコントロールされている患者がなぜ私たちのクリニックに足を運ぶのか?そう思って聞いてみるとこれほど丁寧にチェックをしてくれない病院がほとんどであり、不安を持っているからと言う。釧路での自分の3分診察を振り返り一瞬自問する自分がいた。しかしそればかりではないだろう。症状に見合った薬剤を無償で供給することも彼らが通うインセンティブになっていると思っている。加えてHIVのジェノタイプの遺伝子解析や耐性検査が受けられるのも我々のミッションの大切なところだ。
中にこういう人がいた。別な検査場(無料で出来る検査)でHIV陽性と言われたので、考え抜いた挙句に友に勧められてここに来たと。しかし、今日の検査では陰性だった。別な方法で再検しても陰性。結局彼女は擬陽性だったことになる。あまりトレーニングされていない施設で陽性と判定され、どんなに辛い思いをしてここに来たのだろうかと思うとかわいそうで仕方ない。
黙々と診療に励んでいたら突然、停電。もちろんコンピューターもジエンド。結局また手書きに戻ってしまった。そのうちにもっと大変なことが発覚。別な場所で待機させていた陽性者約20人の迎えをメンバーが失念。彼らのフォローは別な日に延期という事態に。必ずスムーズには一日を終わらせてくれないプムワニの第一日目であった。

ラマダンの中で(9月15日)
今日から一般診療開始。と言っても予想通りポレポレの開始となった。なにせ運んできたベニヤ板の仕切り板が足をもぎ取られて使い物にならない。まず何したかって?何年もしたことのないトンカチでの釘打ちが今日の最初の仕事だった。やっとクリニックの体裁が整ったのが11時で、それから怒涛の外来が始まった。
ラマダンの中で(9月15日)始まってしまえばいつもの外来。症状を聞き簡単な診察?をして処方してHIVテストを勧めて、、、。
今年もラマダンの時期に重なったこのクリニック。面白いことが二つ。一日三回食後に飲む薬を処方する時は注意が必要だ。まずイスラム教かどうかを聞く。ラマダンでは日の出ている時は水を含めて一切口にできないから、夜に一回しか処方出来ない。なかなか気を使う。そしてもう一つは、HIVの血液検査を勧めても、ラマダン中で体力がないからと拒否する人が結構いること。日本では考えられない出来事だがここでは常識なのだ。
遅くから始まったクリニックだが、プムワニ村ヘルスコミティー(PMHC)の協力でスムーズに進行。全体で250人近い患者を診ることが出来た。松山君の鍼灸ブースも盛況で、半日で35人をこなしたようだ。薬局の責任者として久保さんも大車輪の活躍。出足は鈍かったが、徐々に昔の感を取り戻しいささかハイになって大きな声で話している宮城島もいた。みんな元気で踏み出した。

縦糸と横糸(9月16日)
ケニアを代表する実業家に日本人の佐藤さんがいる。縦糸と横糸(9月16日)ケニアナッツ社の社長さんでケニアで始めてマカダミアナッツを商品化し、今や世界的ブランドに成長させたアウト・オブ・アフリカという商標でチョコレート、コーヒー、紅茶などを製造販売している。ケニア土産にいつもそのチョコレートとコーヒーを買っていたが、まさかその社長さんが目の前にいるとは思わなかった。彼がキャンプの視察に来たのだ。ケニアにメディカルファンデーション(医療財団)を設立し、ケニア各地で独自に展開している日本の医療NGOの横の連携をサポートしようとしているのだ。そのNGOの一つとして我々の展開するキャンプがあった。あえてNGOのまとめ役を買って出ようとする志の高さに感銘したとともに、この横の繋がりが有機的になっていったら非常に強力な援軍となると感じた。
残るは、政府や自治体との繋がり、縦糸だ。しかしその兆しは見えている。今回のキャンプからナイロビ市が、クリニカル・オフィサーを小児科担当として、そしてさらに二人のナースを通訳やカウンセラーとして送り出してくれた。長年キャンプの意図を行政に働きかけた結果がやっと現実になりつつあるということだろう。まさに稲田先生の執念?
今回まだキャンプは始まったばかりだが、縦糸と横糸が少しずつ見えてきて強固な布に織り成される予感がする。
さて一般外来の第二日目。到着したらブースがすでに出来上がっている。すごい!十時前には外来スタートだ。順調にこなしていったら、なんと薬局に処方が押し寄せてパニック状態。患者を一時間以上も待たせていると。なんだ釧路労災病院だって二時間も三時間もじっと患者さん待っててくれるじゃないか〜と思いながらも、4人体制の内科を縮小して私が薬局へ。処方箋を一つ一つチェックしながら、棚に並べてある薬をピックアップ。再チェックして患者さんへ。これがまた大変な仕事だった。黙々と薬棚を右往左往しながら、今更になって薬剤師さんの大変さを実感したひと時だった。

ニューリーダー達(9月17日)
三日目の外来も、到着した時にはブースが出来あがっていて、薬剤の棚戻し(毎日クリニック終了と同時に、薬剤をたな卸しして運びだしているのだ)さえ済めばすぐに外来開始という状況。待合場所では受診登録する人でまさに読んで字のごとくに黒山の人だかりだ。さて!と気合を入れて仕事に突入した。ただ残念なことに、今日はナイロビ市から派遣されるはずの小児科担当が来ない。連絡しても音沙汰なく、内科ブースのはずの山本先生を小児科に移動してもらった。役所のトップは派遣を約束しても、動かされる末端にはその意図が行き渡っていない。昨日まで来ていた彼も嫌気がさしたのか、別な人が来るはずだったのか判らないが、来ないことは事実。未熟な組織、特にこういった途上国の公務員にありがちなことだ。まあ、怒ってもしょうがない。ここはポレポレの世界なのだ。
薬剤部に応援に行ったり、途中にHIV陽性者のフォローアップ検診が入ったりと忙しい一日だったが、ただ座ってぶっ通しの外来よりは変化を楽しめるのは事実。今日診た二人の陽性者は、毎月ちゃんと病院に通院し、副作用はあるもののART(抗HIV薬)を欠かさず飲んでいる優等生。おかげてCD4も300を超えるほどになって順風満帆。しかし、肺炎(詳しくはニューモシスティス肺炎、昔で言うカリニ肺炎)の予防薬としてのバクタを、いまだ飲み続けているのはちょっと問題(日本ではCD4が200を超えるようになると休薬が考慮される)とは思ったがおおむね医療者とのコミュニケーションが取れていると感じた。病院によっては、いい加減なフォローアップがされているところもまだあり、今だに温度差はあるが、昨年までは思いも寄らなかったうれしい事実がそこにある。そうなのだ。こうやって我々の仕事が必要なくなればそれが一番いいことなのだ。
ニューリーダー達(9月17日) 今回のキャンプはニューリーダーのアリ・ウエンベを中心としたプムワニのメンバーとHIV陽性者団体を主宰するワンボゴとマーガレットが大きなウエイトを占めている。彼ら3人がフォローしている陽性者とのコミュニケーションが今最も大切なキーだと思っているし、呼び物的な一般診療とHIV検査(VCT)から、陽性者への手厚いフォローアップとウイルス耐性検査などの新しい情報の地域医療機関との共有という活動のシフトが今なされていると考えているからだ。支援の輪が少しずつ広がってきているからこそ、イルファーとしての方向性をきっちりと提示することが今最大の課題といえる。ニューリーダ達と話しながらそう強く意識した。
夜はいつもの自炊。頼られるから?知ったかぶりをしてキッチンに向かう。宮城島、今日はポテトサラダを作る。結構面白がっている自分がいる。

太陽の光を感じて(9月18日)
いつものように9時過ぎにプムワニに到着しても、クリニックを開設しているソシアルホールの入り口の鍵が開かない。搬入出来ない医療荷物が入り口に山と詰まれている。手持ち無沙汰のボランティア達。いったい何事が起こったのだ?
鍵の持ち主がやってきた。賃貸料を払わなければ開けないと。たしか昨年このソシアルホールは内装工事をしていた。それを切っ掛けとしてナイロビ市では一日2000kh(ケニアシリング、およそ3500円)の賃貸とした。しかし我々のボランティア活動に対しては免除(ウェイブ)されると当然思っていたし、担当局に対して免除申請を出しているはずだった。結局四日分の賃貸料を払って開けてもらったが、先日の小児科医の派遣といい、今回の免除申請書といい、地方行政の閉塞感はたまらなく我々にストレスを与える。こういうところなのだと半ば諦めるしかないし、一つ一つ理解していくしかないのかもしれない。
さあ、始めようとしたら、今度は突然の停電。もう慣れたよ。差し込む太陽の光のなかで何事もなかったように診療だ。問診をして簡単なフィジカルチェックをして処方書くのに電気はいらない。歯科医もしかり。ライトがなくとも懐中電灯と太陽があるさ。太陽の光を感じて(9月18日)ラボだって遠心機は使えないけど、じっと血清が出来るのを待てばなんとかなるさ。電気がなくてもクリニックが動くなんて日本では考えられないが、ここでは可能なのだ。
午後にケニアナッツ社の佐藤社長が日本のケニア領事館の医務官やケニアで疫学研究を面々と続けている長崎大学の先生、発展途上国への医療支援を行っている日本のNGO、IMCU(International Medical Collaboration)の現地職員を連れて視察にやってきた。稲田先生が丁寧に診療風景を紹介しながら、活動内容を説明している。品定めされているような気もしてやや緊張して任務に励む。そして後から医務官から連絡があった。ケニア大使と稲田先生との面談が決まった。ゆっくりとしたたおやかな流れだが、何かが着実に動いているような気がする。
診療の開始が遅れたので終わったのはすでに日が暮れていた。やっと静寂が戻った。

怒涛の最終日(9月19日)
今日は最後の一般外来日。行ってみると待合の廊下はすでにたくさんの患者さんで溢れていた。怒涛の最終日(9月19日)腹を据えて外来開始。すごい喧騒のなかで変な英語とスワヒリ語が飛び交う。今年で二回目の松山鍼灸師も黙々と針を打ち、灸の匂いを漂わせている。リピーターが多いのも鍼灸の特徴だ。相変わらず、目の刺激症状(おそらくダストなどによるアレルギー)、咳・胸痛、全身各所の痛み、腹部症状が多い。日本から持参のブランド品も着実に消費されていくが、今回は地元調達も奏功し、薬剤の欠乏によるストレスは解消された。もっとも薬剤部が久保清香保健師を中心とした日本人スタッフが精力的に関わっていたのは大きい。
診療の合間にHIV検査を薦めるが、昨年にも増して、すでに検査を受けている人が増えている。小さな子供を持つ母親はほぼ100%自分のステイタスを知っている。一昨年からの妊婦HIV検診の義務化が大きい。VCT(自発的検査)としての我々の活動はすでに主体ではなくなっていると感じている。しかし今日まで検査したVCTは120人、陽性者15人(陽性率12.5%)はやはり日本では考えられないくらいに高い。
午後の昼休みを利用して、近所の学校にノートやボールペンなどの寄付を届けに行った。小学生から中学生くらいの子供たちが大勢で迎えてくれた。主として孤児(多くはエイズ孤児)たちための自発的な私的な学校である。彼らが寸劇を紹介してくれた。一人の女の子と複数の男の子。興味本位に女の子を見る男の子たちと自分を守ろうとする女の子の掛け合い。性的なことを含めていかに脆弱な女性を男が守っていくか。そうやってHIV感染の予防へつなげていくような内容だった。未来を担う彼らへの啓発こそ最も大切なことを理解して実践し始めている。どこかの先進国の性教育よりずっと進んでいるのかもしれない。
今日は一般外来の後二人の新規HIV陽性者のフィジカルチェックを行った。なんと二人とも全身のリンパ節が腫れている。HIVに関連したリンパ腫だろうことは容易に予想がついた。さらなる検査治療を求めて、聖ジョセフ病院に紹介状を書く。この病院はキリスト教慈善団体が運営している病院であるが、HIVに関してかなり緻密なフォローをしてくれる。このような病院と我々の活動がタイアップ出来ればもっと本来の目的に近づくと思う。複数の患者団体と地元の病院との有機的なつながりをサポートしつつ常に最新の情報を提供し啓発することが我々の次のステップになることがぼんやりだけど見えてきたような気がする。
とにかく終わった。5日間という短いクリニックだが、それを待ってくれている地元の人が居る以上継続しなければならないこのクリニック。アサンテサーナ(ありがとう)、そういって帰る人々が忘れられない。

シャンビさんとの再会(9月20日)
今日は場所を再びリヤドクリニックに移して、HIV陽性者フォローアップをした。しかし我々がそこに居ることを知る住民はHIVに関係なくイマージャンシーとして何人も訪れる。来るものは拒まず。しかしキャパを越えたらごめんなさい。そんな感じだ。
多くは地元のクリニックART(HIVの薬)の供給を受け、半数以上は定期的に通院しているようだ。しかも、薬剤は以前に比べて、種類も豊富になり、日本で使うものとほとんど変わらないくらいになっている。しかし未だに定期的に薬を提供するだけで十分なフォローを受けていない患者も多い。このクリニックでのプライオリティーはHIVの耐性検査と生化学検査が出来ることと、ART以外の薬剤を無料で提供できること、そして、丁寧に時間を掛けて診察し話しを聞いてあげることだと思う。言葉のコミュニケーションはやや不自由だが心は通じると信じている。
今日、シャンビさんが栄養指導に来てくれた。シャンビさんとの再会(9月20日)帯広JICAでの研修が縁で我々と関わるようになった栄養指導を仕事とする公務員で、現在はケニアの東海岸の地区で栄養プロジェクトを展開している。HIV患者の栄養教室を開くためにわざわざ駆けつけてくれたのだ。
いくらARTにアクセス出来たとしても、栄養が十分摂取されていないと免疫力の低下が起こる。シャンビさんは手書きの表とフードモデルを使いながら一人ひとりカウンセリングをしてくれた。頼もしい仲間だ。
午後はナイロビ市の中心にあるマサイマーケット(土曜日限定で開催される青空市場のようなもの)で、お土産を物色。毎年同じようなものでいささか食傷気味だが、人懐っこく寄ってくるバイヤーと楽しく交流しながら、遠い釧路を懐かしく思った。

最後の一日(9月21日)
日曜日。ケニア初めて組は、フラミンゴの群棲で有名なナクル湖へサファリトリップ。残された古参組みはHIV陽性者フォローへ。現地スタッフは患者一人ひとりに携帯で連絡をとったり、直接訪問したりと手を尽くしているようだが、来院するのはポツリ、ポツリ。日曜日ゆえに教会に行っている患者もいるようだ。のんびり、ポレポレの文化に付き合うことにする。
それにしてもシャンビさんの栄養指導は個々人に長い時間をとって親切丁寧にやっている。彼女の参画は、今後のフォローアップ外来の最大の目玉になる予感もする。
最後の一日(9月21日)今回は現地在住で紅茶のフェアトレードを専門にしている日本女性の富塚さん(写真向かって左)と、日本赤十字からケニアに派遣されて子供に対する健康プロジェクトを推進している五十嵐女史(写真右)が応援に来てくれた。稲田(写真中央)プロジェクトに賛同し、現地在住ゆえの細やかな援助をしてくれるというのだ。うれしいことだ。アメリカや日本から現地のスタッフに連絡や指示をしても、隔靴掻痒の感がぬぐえず、いつも準備に手間取っていた。現地の彼女らに連絡することで、現地のロジスティックな面はかなりスムーズに行く可能性がある。ケニアナッツ社の佐藤さんのような大物との繋がりもとても大切だが、このような個人的な小回りの効く繋がりもまた重要なのだ。そういう意味では今回のキャンプで、未来へ向かっての確かな槌音を感じたのは私だけではないと思う。
兎に角、私にとって8回目のキャンプは終了した。怒涛のように過ぎ去った日々だったが、名古屋空港で初めて会い行動を共にしてきた面々は、もう何年もの知己のような感じがする。そして今回は内海先生の初めて抜けたキャンプだった。でも、きっと再び彼とはケニアで逢うことが出来るようなそんな感じがした。
明日午後、ナイロビを発つ。

キャンプを振り返って(9月22日)
ナイロビを午後に出発しほぼ6時間のフライトでドバイ空港に降り立った。オイルマネーをふんだんに使い砂漠の中に高層ビルディングの林を打ち立てた富と繁栄の街、ドバイ。税金もなし医療費もただ。住人にとってはこの上もなく住みよい街かもしれない。しかしそれは外国からの低賃金労働者に支えられている。ケニアからもずいぶんと労働者として流入しているようだ。オイルマネーもいつまでも続くとは思えず、なにか脆弱なものを感じる。まさに砂上の楼閣だ。
今トランジットの時間待ちを利用してドバイ空港で今回のキャンプの総括をしようと思う。
およそ10年継続してきたこのキャンプ。最初はプムワニ住民のVCTの推進から始まった。フリーメディカルキャンプにアクセスしてもらい、HIV検査を自発的に受けてもらう。当時はケニアではHIV検査は有料で、貧困層にはまったくアクセスが出来なかったからそのプログラムはきわめて重要だった。
数年後にやっとVCTが無料化し、いっきにHIV検査が広まる。我々の活動の方向はVCTから陽性者のフォローアップに重点を移そうとしたのは当然の帰結だった。しかもその当時ART(抗HIV薬)は有料であり、陽性者がその薬にアクセス出来るのは非常に限られていたのだ。
そして2005年、ついにART無料化が始まる。ここで問題になったのが、十分なインフォームドコンセントと薬剤管理をしないで薬剤を放出したために、不十分な服用が氾濫したことによる、耐性ウイルスの出現であった。これは我々のキャンプの一つのプロジェクトとして行われている耐性検査でも明らかだ。なおさらHIV陽性者へのアクセスの必要性を感じ、一般外来と別にHIV陽性者外来をすることがここ数年の我々のキャンプの焦点となっている。そして10年がたった。住民はもちろん、現地スタッフは我々の参入を強く求めているが、我々が期待するようなメリハリのある対応はなかなか出来ない。HIV陽性者のフォローに至っては、感染者への連絡の不確実さなどにより一歩すすんで二歩下がるようなことを何度も繰り返してここまで来た。来なければ来ないで仕方ないと思っているのかと思うほどスタッフに反応が無いときもあった。もっともだと思う。自分が食べるのが精一杯のなかでどうして他人に手を差し伸べられよう。純粋なボランティアなど無いし、自分の安定を意識して初めてボランティアに目が行くのは事実だ。
この現状を打破するがために、現地雇用を模索した。そして最終的に浮上したのは、稲田先生自身の現地駐在だった。これは彼の強い意志でもあった。そうやってプロジェクトは動き出す。現地駐在をするということは、今のニューヨークでの生活を打ち切るということになる。そのため各企業から募った資金のなかから稲田先生自身のサラリーを捻出することを計画したのだが、それにイルファー名古屋から待ったがかかった。善意で集めた金からサラリーを出すのは何事かという趣旨だと理解している。内海先生が今回来なかったのはそんな事情からだった。
だからなおさら今回のキャンプは出直しキャンプと考えていた。稲田先生に言われるがままに、あるいは内海先生に誘われるままに、やや惰性になって動いていた今までを反省し、自分がいかに独立してアクティブに活動にかかわることが出来るかを考えるために冷静にキャンプと対峙した。
キャンプを振り返って(9月22日) 夜アパートに帰ってから、稲田先生を交えてずいぶんと医療キャンプの現状分析や今後の青写真について話し合った。なぜこれほどまでにケニアHIVにかかわるのかその原点もさぐった。HIVの黎明期、ニューヨークで助けられずに死んでいくエイズ患者をずいぶんみた。死んで灰になっても家族の墓に入れられない差別をみた。何も出来ない自分が悔しくてしかたなかった。今は薬があるじゃないか。助かる時代なのだ。でも、ここ(プムワニ)ではまだまだ死と向かい合っている。ニューヨークの悔しさをここで晴らしたい。そうやって目を赤くして話す稲田先生に私は疑いの目を向ける気にはならなかった。
今年のキャンプのなかで大きな流れの兆しを見ることが出来た。一つはケニアナッツ社の佐藤社長を仲介とした、長崎大学疫学調査隊や日本のNGOとの交流。そして大使館とのかかわりの具体化。加えて富塚さんや五十嵐さんという活動的な現地の邦人女性との繋がり。継続してきたことで多くの現地法人や個人が我々の活動を認知し、協力体制が出来上がりつつある。大使館が関われば、もう少しケニア政府やナイロビ市への働きかけがスムーズになるだろうし、佐藤さんという大きな存在は金銭面というより横の繋がりのなかでロジスティックなサポートを得やすくなる。
そして、ナイロビ市からの職員の一時的派遣の実現。これはまだまだ不十分だが少なくとも今回のキャンプで二日間ナイロビ市の職員のクリニカル・オフィサーが小児科を担当してくれた。さらに稲田先生と煮詰める必要があるが、端緒は出来た。
もう一つ明るい出来事があった。HIV外来で使用していたリヤドクリニック(モスクが所有している)を永続的に借り入れることが確実となった。これで拠点が出来る。陽性者をフォローしている団体が自由に出入り出来るようにして、そして固定電話を設置して頻回に患者にアクセスすることが出来るだろう。もちろん我々の今後の活動の拠点となるはずだ。
ただ、まだまだ解決していかなくてはならないことは多い。多くのサポートの動きやハードの充実が実現しそうだからこそ、きっちりとしたキャンプの活動の青写真を示さなくてはいけないのだ。稲田先生一人に任せるには体力的にも精神的にも限界がある。古参の我々がサポートしなくてはいけない。最古参で最も理解のある人こそ内海先生なのだ。
最後に一つ個人的見解を述べさせてもらう。ドネーションやバジットで集められた活動資金のなかから、稲田先生のサラリーを払うのはなんら問題がないということ。これはイルファー釧路の総意でもある。
複数の現地スタッフに聞いてみた。この土地での活動資金のもし三分の二がサラリーに消えたとしたらどうか?ノープロブラムさ。我々にとってみれば残った三分の一が重要なのだから。現地の逼迫した現実の前には、純粋な奉仕精神はむしろ脆弱にすらみえる。
先が見えてきた。少なくともロジスティックの面では充実しつつある。だからこそ内海先生の復帰を心待ちにしている自分がいた。
今回は体力はもちろんのこと、いつもより頭をたくさん使ったキャンプだった。
もちろんそのためにはたくさんのタスカー(地元のビール)とたくさんのシンバ(現地のリキュール)が必要だった。

参加者みなさんの自発的協力と、薬剤の提供をしてくれた製薬会社さま、個人的に金銭的援助を申し出てくれた患者さま同僚その他の方に心から感謝します。それはプムワニのみんなの言葉でもあります。

ケニア日記番外編(1)
ケニアの女性は働き者です。特に洗濯はほとんど毎日みんなが集まる洗い場で三つほどの洗い桶を並べて必死にがんばっている姿は感動ものです。ケニア日記番外編(1)普通、物をたらいで洗うときは、しゃがんでやるものじゃないですか?彼女らは決まって膝を伸ばして、立ったまま上半身を大きくかがめて(ベントして)手洗いをする。絶対腰に来るだろうなと思っていたが案の定腰が痛いと来院する女性が後を絶たちませんでした。あの格好で長時間いると絶対腰を痛めます。そう説明すると納得したよう。でも、明日からまたあの格好でやるんでしょうね。私もケニア滞在中はバスタブで何度か洗濯をしました。一生懸命洗って絞ったのはいいのですが、なんと絞り過ぎて手の指の皮がむけちゃったじゃないですか!そういえば、洗濯おばさんの手は洗濯板のようにごつごつして硬かった。柔な日本男児は到底立ち打ち出来ませんでした。

ケニア日記番外編(2)
昨年からケニアでの宿営はナイロビ市内のアパート。台所には冷蔵庫、電子レンジ、数々の食器、鍋、フライパンなどあらゆるものが装備されているものですから、自然な流れで自炊でもやりますか?となる。昨年は名古屋の検査技師の森下さんと、釧路鍼灸界のホープ、須藤さんがいたものですから、彼らの指揮監督のもと自炊は滞りなく進みました。森下さんを三ツ星シェフとしたら、須藤さんはサバイバル的創作料理の天才と言えます。
そして今年、蓋を開けたら、二人ともいない!?
誰がやるんでしょうと、なんとなくみんなが尻込みしながら値踏みを始めている姿を想像してください。
もうしょうがない、まっつ(松山)と私が中心にやりましょう。ケニア日記番外編(2)だから食事場所は我々のアパートです!
あ〜あ、言ってしまいました。
松山さんの料理の腕前は須藤創作料理の天才が認めていましたからいいとしても、彼だけに任せるわけにはいかないでしょう。言った(宣言した)手前、私もかかわらなければと覚悟したわけです。恥ずかしながら私、カレーの味には少々うるさいですが、ほとんと台所に立ったことのない男。でも初日から、創作?カレーを作りましたよ。とろみが出なくて結局スープカレーということにしました。おいしいおいしいと食べてくれる。おっといい気になってきたぞ。次の日は鶏肉の照り焼き。スーパーで買った冷凍鶏肉をこんがり焼いて、帯広の豚ドンのたれを塗って出来上がり。いいね〜鶏肉の豚ドン風味照り焼き。
昨年冷えたフライパンから始めて大失敗したスクランブルエッグも、熱々にフライパンをあぶった後でちゃんと出来ました。ピーラーで爪を切りながらも芋の皮をむき、ポテトサラダにも挑戦です。多くはまっつの指揮監督の元ですが、、。
私の料理手腕の危うさに危機感を感じたのか、同情してくれたのか、そのうちに女性軍もそして後ろから見ていただけの男性陣も次々と料理に参戦してくれるようになり、かくして自炊は軌道に乗ったのでした。もちろん皿洗いも得意ですよ。
もっとも、これは危機的状態における生存を掛けた局面での行動であり、釧路という日常では、無理かもしれません。いや無理でしょう。これ、予防線?