ケニアメディカルキャンプレポート 2019

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

メディカルキャンプレポート 2019 / 宮城島拓人(内科医 イルファー釧路代表)

プロローグ(どんと鳴った花火に見送られて: 9月14日)
プロローグ(どんと鳴った花火に見送られて: 9月14日) 花火に誘えたら、恋だと思う。
 検査に誘えたら、愛だと思う。
 そんなメッセージを込めて、花火大会のその日に、HIV抗体検査が始まった。
 釧路大漁どんぱく祭りの花火大会の人出にぶつけた今回の検査会。主催はエイズ中核拠点病院でもある釧路ろうさい病院。そこに市の健康推進課、道の釧路保健所、そしてNGOが協働した。そもそも祭りを楽しみに来ている人たちが時間を割いてまでHIV検査に訪れるのか。誰もが不安だった。しかし街の中でなんの心理的ハードルも感じることなく簡単にHIV検査が受けられる環境を作り出す絶好のチャンスとばかりに準備した。夏のイル活の研修会で、HIV検査勧誘のロールプレイをした看護学生たちも喜々として人混みに散っていった。
プロローグ(どんと鳴った花火に見送られて: 9月14日) 開けてみると、、、、やっぱり日本人の感覚としては、まだまだ他人事なんだろう。ポスターのキャッチコピーほどHIV検査に心が動かないようだ。でも、2時間のうちに40数人の受験者が足を運んでくれたことは事実だ。そしてその中には感染不安で受検した人が必ずいる。街の中のHIV検査はまだまだ序章に過ぎないのだ。HIV検査のハードルを下げる為に来年への課題を拾う。
 これから打ち上げられる花火に期待感膨らむ群衆のエネルギーから逃れるように、我々は空港に向かう。いよいよケニアだ。
 釧路組は3人、当院で初期研修を終えた3年目の小田総一郎内科医と、9年目の北川健歯科医、そして今年でケニア19年連続となる古参宮城島。
 青年海外協力隊としてケニア赴任経験のある鍼灸師石島裕太君はすでに9月7日にケニア入り。昨日は、7度目の青山さん(国外での医療活動のベテラン薬剤師、昨年はギリシャ難民医療支援に行っている)と初参加の原田真希さん(薬剤師15年目のベテラン)、海外医療支援の経験の豊富なバイタリティーある看護師の坂本さん(4回目)、柳瀬さん(6回目)が出発しており、すでに現地で薬剤棚卸しや環境整備にいち早く取りかかってくれている。
 釧路組が、羽田あるいはドバイで落ち合うのが、東京小児医療センターの荒木小児科医(4回目)と初参加の大北恵子小児科医(彼女はインドのマザーテレサの施設でボランティアの経験を持つという)、そして看護師の角田有子さん(初参加、日本赤十字医療センター勤務)。神戸大学感染症科からは海老沢内科医(4回目、キャンプでグラム染色までやってしまう感染症のプロ)と初参加の飯島健太内科医。そして大阪からは3回目の参加になる看護師の柏谷さん(ケニア大好きでスワヒリ語堪能。現在訪問看護師としてHIV患者の支援を行っている)。総勢14人が今年の日本メンバーだ。
 ここ空港ではもう花火の音は聞こえない。どんな明日が待っているのだろう。ケニアではどんな花火が打ち上がるのだろうか。
 では、行ってきます。

いよいよケニアに(千葉の災難を胸に)
いよいよケニアに(千葉の災難を胸に)「真っ暗だよ。」隣の老夫婦の言葉にびっくりして遠目から窓を眺めた。確かに眼下に広がる空間は漆黒だった。所々に弱々しい灯りの列が見えるだけだ。そうか、ここは房総半島。停電だ。釧路から羽田への侵入ルートは房総半島から東京湾を横切って入るので、房総上空を通る。先週の台風の傷跡が生々しく漆黒の夜を演出して居るのだった。電気もなく水にも苦労して居る何十万の人たちの労苦を奇しくも上空から眺めることになった。そんな時に呑気にケニアか。そういえばこんな感情はいつものような気がする。昨年はやはり尋常でない台風が関西を襲い、関空の機能停止のなかケニアに向かった仲間がいた。北海道は地震によるブラックアウトで、釧路脱出すら困難になりそうな状況だった。毎年ケニアに行く時期に天災が牙を向く。ケニアどころではない事情をいつも目の当たりにしながら日本を飛び立っている自分。待ってくれる人は、日本でもケニアでも同じだと思うことで、後ろ髪を振り払いながら、ケニアに向かう。
 やっと、ドバイに着いた。信じられないほどの順調な安定した航路だった。そして、先乗り意外の加メンバーが全てドバイに集結した。
 千葉で天災に苦しんで居る人たちには何もできなかったけど、その思いを共有しながら、明日のケニアに出来ることをしようと、みんなの笑顔を見て思った。いよいよケニアに(千葉の災難を胸に)

薬に税金、そしてアリがいない(ケニア入国の日: 9月15日)
薬に税金、そしてアリがいない(ケニア入国の日: 9月15日) ケニアッタ空港に着陸した時には、順調に長い旅程を消化したことを信じて疑わなかった。しかし誘導路に入って機体がぴったりと止まった。滑走路上での飛行機のトラブル(機長はfire brakeと説明している)で先が塞がれているためだという。機体のフロントカメラから映し出される映像には右前方に見える飛行機に放水された痕があり、多くの一般乗客が滑走路を横切って移動してバスに乗り込んでいるのが見える。やれやれ到着一番、いきなり花火が上がったようなものだ。しかも足止めの。
 着席したまま待つことおよそ1時間、やっとターミナルに着いた。通関はスムーズだろうと思ったら、やられた!釧路組若手の薬がたんまり入っているトランクが開けられて、尋問が始まったのだ。フリーメディカルキャンプをプムワニで行うための寄付としての薬剤だと説明し、行政のクリニック開設許可証や、医師、歯科医師がケニアで医療行為を可能にする許可証まで提出して説明しても、薬剤が寄付であっても関税がかかるようになっていると、2013年の行政文書を示して相手も一歩も譲らない。ひょっとして袖の下が欲しいのかと思ったが、そうではないと明言された。押し問答の末、話し合いの末50ドルの追徴で手打ち。やれやれ。2013年からの公示とはいえ、こんなこと初めてだし、では今まではなんだったのかとも思ったが、確かに彼らの主張も一理あるわけで、今後の授業料として納得することにした。むしろ搬入した薬剤の実売価格を勘案すると50ドルで良かったと思うしかない。またまたでかい花火が打ち上がってしまった。
薬に税金、そしてアリがいない(ケニア入国の日: 9月15日) さて、思い直して、稲田軍団との再会!空港前でのいつものお迎えの風景、のはずだったが、そのいつもの顔の一つがない。アリだ。
 実は、彼は今、病院のベッドの上に居る。数週間前、稲田先生からレントゲンが添付されたメールが届いた。アリが歩くと左足が痛いと言うので、レントゲンを撮ったら左大腿骨の根元が黒くなっていると。どう見ても骨融解所見。腫瘍だ!結局骨生検に至ったのだが、どうした事か、そこで骨折してしまう。病院で、だ!
 最も信頼すべき現地のスタッフがいないのは残念だが、彼を欠いた状態でキャンプ準備を進めてきた稲田先生の負担の大きさは並大抵のことでは無かっただろう。今日三つ目の花火は悲しい花火だった。しかし、相変わらず陽気にワンボゴたちが歓迎してくれる。嬉しいことに稲田先生も元気だった。そして前乗り組との再会。アリなしでも乗り切る、そんな団結力を感じて、飛行場から直行した会場設営準備を終えて、私は最初のタスカーを一気飲みした。 そして思う、アリサポート基金をキャンプ中に立ち上げようと。
 いきなり厳しくも悲しい現実を突きつけられた長い1日だった。

おめでたの花火が上がった(外来初日の9月16日)
おめでたの花火が上がった(外来初日の9月16日) 空港から直行しての会場への物品搬入には疲れたが、その後現地スタッフたちは夜を徹して施設作りをしてくれていたのだろう(私たちがタスカーを飲んでいる時にも)。
 朝着いてみるとプムワニ・ソシアルホールは、昨年と同じようなクリニックに生まれ変わっていた。
 内科ブース、小児ブース、歯科ブース、鍼灸ブース、ラボ、そしてカウンセリングルームや薬局。あれ、小児ブースが狭いぞ。昨年は4人でやっていたブースが、2人仕様。それもそのはず、常連だった堀越先生が今回WHOの仕事のため不参加だけではなく、今年はムマジュマもいないのだ。クリニカルオフィサーとして長年小児科の一角を支えてきた彼女であったが、ソノグラフィスト(超音波検査専門技師)の資格を取るため、現在ある病院で一日20から30例の症例プラクティスを課せられている最中で、毎日レポートに悪戦苦闘しているらしい。そのために今回のキャンプには参加出来なくなった。それだけではない。ケニアにきて初めておめでたい花火が上がった。まさにお・め・で・た。10月には赤ちゃんが生まれるのだ。堀越先生とムマジュマのいない小児科でのスタートだったが、彼女の頑張り(キャリアアップの努力と妊娠出産)に応えるべく残った我らのモチベーションは上がる。
おめでたの花火が上がった(外来初日の9月16日) 今年から、朝の全体ミーティングで各部署での情報交換と注意点、問題点を話し合うことにした。看護師の配置から薬剤の状況など様々なことを共有してスムーズな診療に当たるために。そのせいか、いや、現地スタッフがキッチリと環境整備をしてくれていたことが大きいのだろうが、初日はスムーズな滑り出しだった。最初の患者の抜歯に悶絶したと言っていた北川先生だったが、スワヒリ語堪能の看護師さんたちの濃厚なサポートで、以後は事も無げに抜歯をこなしていた。小児科、内科の初参加の先生たちも、あっと言う間にコツを覚えて患者をさばき始めた。約束処方を中心に配備した薬局でもスムーズな調剤が行なわれていた。横では今年からソシアルホール内で稼働可能になったオートクレーブが思い出したように白い煙を上げて自己主張している。そしてアリの抜けた穴を必死に埋めるようにワンボゴが(陽気に)フロアーを闊歩する。不思議なことだが毎年の風景である喧騒をあまり感じない粛々としたスタートだった。
おめでたの花火が上がった(外来初日の9月16日) 今朝の朝食も昨年からの料理人アンソニーの手によることになり、朝にも余裕が出来た。今夜もそのアンソニーによる手料理。手を動かすより口を動かすのがお好きらしいが、私たちの胃に優しい料理を作ってくれる。もちろんタスカーがあればそれ以上は求めない。
 成人240人、小児86人、鍼灸19人、歯科13人 総処方箋数317枚。このくらいだとゆとりを感じる。HIVは検査25人中1人が陽性だった。


プムワニで急性HIV感染症に触れる(9月17日)
プムワニで急性HIV感染症に触れる(9月17日) 5時前から目が覚める。まだまだ暗いナイロビの空を眺めながら、昨夜のことを反数してみる。昨夜稲田先生と2人で久しぶりに長い話をした。今までのキャンプ、これからのキャンプ、そして次に来るもの。孤児院のこと、ケニアの西では、HIV陽性率がまだまだ高い地域があること。そこでの医療展開の夢。メールでのやりとりだけではわかり得ない多くのことを共有した。そしてこのキャンプの間に次の行動を模索する必要がある事も。美味しいワインと意義ある時間を過ごした。
 2日目は、9時前に始まった。それぞれがそれぞれの持ち場に散り、プロとしてやるべきことに専心する。昨夜も稲田先生と話し合ったが、キャンプを始めて20年、ここまで機能的な医療施設になる事を誰が予想しただろう。しかもプムワニと言うスラム地区でずっと20年。この地区にはもう海外からの医療支援はイルファー以外に一つもないのだ。病院が突然のように出現し、わずか一週間で消えて行く。現地の人々は幻をみるような錯覚に襲われるのかもしれない。ただ歓迎してくれる。待っていてくれる。それだけは変わらないし、我々のモチベーションの要であることに変わりない。もちろん幻なんかではないのだ。
プムワニで急性HIV感染症に触れる(9月17日) 路上で人が倒れていると、呼ばれた。
 30代の男性。触るとすごい熱だ。それだけではない、すごい重篤感。意識はあるがやや朦朧。弱々しい声で、熱と頭痛と下痢を訴える。著しい脱水と見て取れた。アセトアミノフェンで解熱させ、ORS(経口補水液)を飲ませた。まずはマラリアとHIVを調べた(ここではチフス熱の検査は出来ない)。マラリア、HIV抗体は陰性だったが、なんとHIVのp24抗原が陽性とでた。HIV初期感染!すぐにPIMAで CD4を測ると77しかない。HIVとすれば、あの朦朧とした症状は無菌性髄膜炎なのか?慌てて首を触ったら案の定硬い。プムワニで急性HIV感染症に触れる(9月17日)初期診察で頚部硬直を確認しなかったことは反省だが、このキャンプの中でHIV初期感染による無菌性髄膜炎が診断されるとは思いもよらなかった。すぐに、彼の弟を呼んでムバガディホスピタルへ搬送となった。プムワニに20年通い続けて初めて診断したHIV初期感染だった。やっぱりいるのだ、こんなケースが。
 それにしても忙しい1日だった。カルテベースで成人304人、小児126人、歯科23人、鍼灸40人、処方箋は440となった。個人的には、107人を診たことになった外来二日目だった。

援軍現わる(9月18日)
援軍現わる(9月18日) 堀越先生が、ナイジェリアでのWHOの活動(ポリオ撲滅のための予防接種推奨)の休暇を利用して、同僚の看護師さんを連れてわざわざケニアに来てくれた。久しぶりの再会に心が熱くなった(だから飲み過ぎた)。そして今日明日と我々のキャンプを手伝ってくれる。小児科ブースは少し余裕が出来るだろう。
 三日目、今のところみんなの体調は良好で、順調に外来がスタートした。診療の最後に、HIV検査を勧めるのだが、最近の傾向として、殆どの患者がすでにHIV検査を受けている。しかも年に何回もだ。試しにどのくらい検査するのかと聞いてみると、平均して一年に2〜3回検査している。ルーチンに3ヶ月ごとに検査しているツワモノもいた。なぜそんなに検査するのだと聞くと、自分を守るためだと。何か違う。自分を守るには、それなりのセーファーセックスをするのが第一だろうと言っても、笑って聞きすごすだけ。行動変容もしないで、援軍現わる(9月18日)自分の安心のために検査を繰り返すのはやはり違うと思ったが、それ以上の議論にならなかった。そんな訳だから、検査フォームに昨年陰性と記載した患者が、今回陽性になっていることが実際ある。今日もそんなケースに出会った。
 午後、恒例のプムワニサバイバルスクールを訪問した。歓迎のダンスはいつも楽しい。歌の中で、イナダに続いてミヤギシマと言ってくれたようだが、ミヤシマとしか聞こえない。貧困の環境の中で生き残っていくには(だからサバイバルスクールなのだ)、勉強をすることであるという単純で明解なことを必死で実践している学校に通い続けて20年。援軍現わる(9月18日)もちろん我々の入れ込みも大きい。そんな子供達と束の間の交流はとても楽しい。彼らの未来は彼らが作り出す。それを少しでもサポート出来ればこの上もなく幸せだ。
 学校との交流があったものの、9時4時の診療とはいえ密度の濃い外来だった。個人的には今日も100人を超えた。
 成人293人、小児135人、鍼灸45人、歯科は30人に達した。
 昨夜は、自炊だったが、今夜はエチオピア料理を食べに行く。ONとOFF、日本でこそ必要なことだ。

働く看護師さんそして松下さん(9月19日)
働く看護師さんそして松下さん(9月19日) 朝6時きっかりに、玄関の呼び鈴がけたたましくなる。料理人アンソニーのお出ました。釧路組の部屋がメインダイニングとして全員の食事部屋、飲み会部屋となっているので、朝食を作りに日参してくるのだ。いつも陽気な顔でやってくる。「ドクトリ!(ドクターのこと)お願いしたスマホはまだかい?みろ俺のスマホは写真を撮ってもボケてどうしようもないだろう」人懐っこく、会うたびに聞いてくる。どうやら、昨年日本でスマホを買って来て欲しい(もちろん金なんて出すつもりもないんだろうが)と私に頼んだらしい。買ってやるなどと一言も行った覚えはないのだが、それらしく捉えられるような曖昧な表現をしたのか、彼はしつこく覚えている。ものを貰うことに慣れているケニア人と話しているとこんなことは結構ある。とにかくいい加減な返答はしないことだと改めて思う。
働く看護師さんそして松下さん(9月19日) 朝のミーティングで、看護部から毎日報告がある。今日のリーダーは誰、何かあったらまずそのリーダーに聞くようにと。そして誰々が歯科ブース、誰々が薬局、誰々がラボ、というように配属を明確にしてくれる。自主的に考えたルール。それが診療単位の隙間(ニッチ)に滑らかに効率よく入りこみキャンプの素晴らしい潤滑油となる。仕事は探してするものだ、という名言をまさに地で行く仕事ぶりで感嘆しかない。
 急性鬱滞性乳腺炎がきたんです。と飯島先生が興奮して話す。何に興奮したのかと思えば、看護師さんのとっさの処置。状況を聞きつけた産科経験のある柏谷さんが、現場で乳房マッサージを始め、たまった母乳を搾乳してくれた。彼女のカンガが濡れソボるような相当の排乳だったらしいが、それで患者の症状が著しく改善したんだと。興奮覚めやらぬ飯島先生の目は看護師へのリスペクトに他ならない。
 午前の外来が佳境に入った頃、二組のビジターが来た。一組目は本来火曜日に来るはずだったナイロビ市保健局の役人。我々の医療行為が適切なのか、研究目的ではないのか視察するらしい。ソシアルホールも市のもので我々が賃貸料を払って借り受けているのだ。今回は非常に好意的な笑顔でキャンプのレベルの高さを褒めて帰って行ったと稲田先生が言っていたが、働く看護師さんそして松下さん(9月19日)やっぱりなにがしかの袖の下を用意した模様。我々がなぜここで医療行為を行なっているか、その歴史を理解してくれれば、喜んで場所を提供して活動を認可してくれるようなものだが、やっぱりケニアの行政はそんなもんだと半ば諦めの境地で外来に戻る。
 二組目の来訪は嬉しかった。モヨの松下照美さんが2人の日本人見学者を連れて陣中見舞いに来てくれたのだ。忙しい午前中であったけど、先の役人の視察と違い、一瞬で場を和ませてくれるオーラがそこにある。和やかに旧交を温め合い、日曜日のモヨでの再会を約束して爽やかに帰って行った。同志がそこにいた。
 今日の実績。
 成人374人、小児190人、鍼灸59人、歯科31人 

頑張れムマジュマ、負けるなアリ(9月20日)
頑張れムマジュマ、負けるなアリ(9月20日) 昨日は、診療が終わって、ムマジュマにエコーのレクチャー。ソノグラフィスト(超音波検査専門技師)の資格を取るため、日々レポートに苦労しているとは聞いていた。実際のケースをモデルにしてのエコーを教えて欲しいということだった。もちろんできる限り応援するつもりだったが、本当の患者を連れてきたのにはビックリした。基本的なことは大学でのレクチャーで理解していたが、さすがに細かなことはまだまだ。見えるものと見えないものをしっかりと理解し、間接所見から読み取れる情報をいかに引き出すかもポイントの一つであると偉そうに説明しながら、プローブの当て方を伝授したが、もうじき臨月の妊婦なのに、その真剣な学びの態度にむしろこちらが気後れする雰囲気だった。でも絶対に合格して欲しい。プムワニの住民のためにも。
 アリの骨腫瘍生検結果が出た。形質細胞種だった。今後はそれが孤発性か、あるいは多発性骨髄腫の一病態なのかの鑑別が必要だが、とにかく放射線療法を急ぐ必要がある。今入院している病院でそれが出来るのか。どちらにしても治療を急がなくてはならない。病的骨折をしているのだからなおさらだ。居ても立ってもいられず、午前中の診療前にアリを見舞いに行った。頑張れムマジュマ、負けるなアリ(9月20日)ベッドに寝たきりで苦悩しているかと思いきや、笑顔で我々を迎えながら、痛くもないし大丈夫だよと言い放つ。トイレ行くにも担いで連れて行ってもらっているのに!この病院では血液の検査もしていない。骨折部位の牽引すらしていない。早くしかるべき病院に移すべきだが、果たして何処なんだそこは?別れ際の握手で、彼は「インシャーラ(神の思し召のままに)」と、言った。神頼みで諦めていいと言う問題ではないような気がするが、ケニアの医療の常識は一体、、、、放射線治療で治癒が期待できるからこそ、もどかしさと焦りと悲しさを感じながら、外来の喧騒の中に戻った。
 5日目。スケジュール上は今日が最後のプムワニでの外来。
 最近の大人の患者の症状を考察する。咳と痛み、腹痛、皮膚トラブルは主要症状には変わりないが、変形性膝関節症、高血圧、糖尿病、白内障など日本のどこでも見られるような慢性疾患が来るたびに増えてきているような気がする。そしてその症状も、クリニックが開設しているから行ってみるか的ななんとも必然性がなさそうなものが大半に見える。もちろん前出の髄膜炎のような急性疾患が運び込まれることもあるが、それはレアケースだ。かなり重症な化膿性疾患も五月雨式に現れるが、それも衛生状態がよろしくない環境ではありがちなことだから当然と受け止めている。だから一番求められる処方が、痛み止め、制酸剤、湿布、咳止め、種々の軟膏。20年前に初めて開設した時には、ここが命を守る砦のような気分だったのとは、かなり様相が変化して、日本の一般クリニックのような役割を担っているような錯覚に陥る。年に一回開催される当クリニックが住民に歓迎されつつも、現地のニーズは変わって来ていると理解しなくてはいけないと考えながら、黙々と患者をさばいて行く。
 最後の2時間に怒涛のように患者が押しかけ、息もつく暇がなく時間がすぎて、突然のように患者が途絶えた。これで終わったのか?なんの感慨もないうちに疲弊して終了してしまった。
 個人的に130人は新記録かもしれない。
 成人378人、小児191人、歯科48人、鍼灸72人。みんなすごい数をこなしていた。お疲れ様、そしてありがとう。

ナイロビで花火、そしてヘキマへ(9月21日)
ナイロビで花火、そしてヘキマへ(9月21日) 鳥のさえずりで目を覚ます。昨日までの喧騒の中の外来が終わりホッとしているのと、何かやり足りなかったような気持ちが入り混じっているが、綺麗なそして日本では聞くことのできない鳥の声につかの間の安堵を感じ、そんな時間に身を任せているのが心地よい。
 昨夜自炊パーティーで盛り上がっている時のこと、突然外で、ドーンという音が連続的に鳴り響いた。まさかどこかでドンパチが始まったかと身を縮めながらベランダに出てみると、なんと街の中心部で大掛かりな花火が上がっていたのだった。ナイロビで花火!今まで19年もここに来ているが、一度も拝んだことのない花火。釧路の大漁どんぱく花火を見損ねてから始まったこの旅の中で、我々はいくつもの花火(事件)をくぐり抜けて来たが、この花火は正真正銘の花火だ。プムワニでのキャンプ終了を盛大に祝うかのようなスターマインに、何故だか目頭が熱くなった。
 午前中は、ナイロビ中心街の公園で行われている、マサイマーケット(青空市場)にお土産の物色。イルファー釧路のバザーのためにも大袋を下げて覚悟して行動、しかし暑くて少々バテ気味ながらもなんとか終了。
ナイロビで花火、そしてヘキマへ(9月21日) 午後はナイロビから西へ車で1時間半ほどにある街にあるHekima Place(女児専用の孤児院)へ。昨年まではコトレンゴというHIV陽性者ばかりの孤児院を訪問し、メディカルチェックをしていたが、コトレンゴにあるHIV薬をヘキマの孤児院に供給していた縁から稲田先生が関わるようになった。コトレンゴのサポートは稲田先生とムワジマの定期的な訪問と検査によりかなり安定して来た感があり、今年の訪問はヘキマを選んだということだ。70人程度が寄宿しており、そのうち11人がHIVに感染している。陽性陰性を問わず、すべての子供達の口腔ケアと身体チェックが今回の我々の使命だ。
ナイロビで花火、そしてヘキマへ(9月21日) 迎えてくれたのは、ケイトさんという80歳になる温厚な、しかもとてもジョークが素敵な女性。彼女がここの創設者だった。ペンシルベニア出身で人生の半分をここに捧げている敬虔なクリスチャンだ。現在寄宿している孤児は乳飲子からclass8(中学生)だが、高校、大学まで支援しているのはすごい。孤児を預かるうちに、HIV陽性の子供にも関わるようになり、コトレンゴと繋がったわけだ。昼食をご馳走になった後、口腔チェックで虫歯の確認をし、問診と聴診による健康チェックをおよそ35人に行ったが、彼らが暮らしている環境に目を見張った。5エーカーの畑を持ち、多くの野菜を栽培し、かつ牛を飼育しミルクを採取する。鶏の飼育もしており、卵も自給自足だ。そして、爽やかな空気と穏やかな風。昨日までいたプムワニとは別世界がここにあった。
 こんな環境の中で、愛の中で育った子供達は幸せなんだと思うし、これからも守ってあげたいと思う。コトレンゴにしろ、ヘキマにしろ、我々の支援のターゲットが少しずつ変わりつつあるのを感じた。
ナイロビで花火、そしてヘキマへ(9月21日)

成熟の先にあるもの、そしてモヨ(9月22日)
成熟の先にあるもの、そしてモヨ(9月22日) ニューフェイス達は、朝早くにナイロビ国立公園のサファリに出かけて行った。1人部屋に残って、昨夜の事を反芻してみる。
ケニアのキャンプをほぼ終え、開放感の中で盛り上がったパーティーの最後を締めたのは稲田先生の言葉だった。このキャンプの期間中、何度も2人で話し合ってきたこれからの事。ついにアナウンスする時が来た。20年を振り返り多くの協力者のおかげでここまで来られたことのへ感謝。HIV患者へ寄り添うことの熱意。プムワニ以上にHIV陽性率が高くまだまだ大変なところがケニアにもナイロビにもある現実。HIV陽性孤児が成長して医療者になることへのサポートの夢。そして今のキャンプを続けるには資金が足りないというこれも現実。夢と現実が錯綜する中で、彼の出した結論は、とりあえず20年続けて来たキャンプを一回延期して、次のプロジェクトを模索するということだった。それがベストの選択だと私も思っていたし、今後の継続性のあるHIV陽性者のサポートを続けるためにも、ターゲットをプムワニから、子供達に向けることが最も有効であり、協賛者の賛同を得やすいと思っていた。いよいよその結論が出た。大きな花火が打ち上がった。皆神妙に聞いていたし、言葉一つ一つに納得し頷いていた。私は恥ずかしいことになぜか涙を止められなかった。キャンプを一時中断せざるを得ないことが悲しいのではない。自分の関わった20年を頭の中で回想し、そして次の一歩を踏み出せたことに対する安堵と喜びの涙だったのかもしれない。
 キャンプの終わった夜に見たナイロビの花火は、幻ではない。20年間の及ぶプムワニ医療キャンプに対する盛大な打ち上げセレモニーだったに違いない。

成熟の先にあるもの、そしてモヨ(9月22日) 午後は恒例行事となったモヨホームへ。ハイウエイを走り抜けること小一時間でティカの街についた。待ち受けていた松下照美さんの笑顔と男児およそ20人。お互いの自己紹介の後、持ち寄ったおもちゃで遊んだり、音楽に合わせて踊ったり。流石に男の子は元気だ。昨日は女児の孤児院でゆったりとした時間を過ごしたのと対照的な破天荒ぶり。でも、元気こそ将来のパワーだ。松下さんが80歳までの夢を語っていた。薬物依存の子供のリハビリを農業体験を通して行う農場を作ったのは昨年のことだったが、彼らを社会に送り出すシステムを作りたい。そのためにも薬物依存専門の医師の参加も求めて行きたいと。70を過ぎても10年後の夢を語れるすごさに感服したとともに、昨夜スタッフのみんなに、還暦を祝ってもらって悦に入っていた自分が恥ずかしくなった。
成熟の先にあるもの、そしてモヨ(9月22日) 稲田先生の夢、松下さんの夢、どちらも大きくて畏怖さえ覚える。
 プムワニでの医療キャンプの来年は、次のステップへ移るための充電期間となりそうだが、モヨホームのますますの継続的進化にこれからも注目して行きたいと心から思う。
 これで、今年のケニアは終わった。アサンテサーナ。

エピローグ(総括;花火に彩られたキャンプだった)
エピローグ(総括;花火に彩られたキャンプだった) 最初から、花火をキーワードにして、キャンプ報告を始めた訳ではないが、釧路大漁どんぱく祭りでの花火大会の日に飛び立ったのが縁であったのは間違いない。花火大会に合わせて行った釧路でのHIV検査会は、陽性者の拾い上げというより(もともと0.1%に満たないHIVの陽性率の低いところで検査したところで偽陽性は出るが、本質的陽性はレアだ)HIV検査がハードルの低いもので気楽に受けられるのだという啓発運動と、陰性者であることを確認することで、これからの人生の中で陰性であることを守る意識が芽生えることを期待してのカウンセリングが主体だった。ケニアではどうだろう。そんな悠長な検査会はやってられない。プムワニでも今だにHIV陽性率は5%を超えているのだから、陽性者を拾い上げることが急務だし主目的となる。全然目的の違う検査会を我々は釧路とケニアでやることになった訳だ。
エピローグ(総括;花火に彩られたキャンプだった) ケニア通関での出来事が、今回の大きな花火の一つであったと言っていい。薬剤の搬入はここ20年続けて来た訳であるが、過去に一度、全品没収され100ドルの袖の下で解放された経験があったが、あれはケニア的役人の個人的資質の問題として諦めた。しかし今回は、どのような使い方であれ、海外からドネーションとして持ち込んだ品物にも、TAXが掛かるという2013年発行の行政文書を盾に紳士的態度で一歩も譲らない。結局50ドルを税金として返納したが、これはどうしても看過できない事柄である。
 そしてアリの病欠。キャンプの要の1人が抜けたことは、大きな花火と表現したとはいえ、私たちの心に重く沈んだ音を残した。形質細胞腫という悪性腫瘍で、大腿骨骨折を合併しており、早急な固定と放射線療法が必須であり、それが治癒に繋がる唯一の方法であるのだが、キャンプ期間中ただ病院のベッドで寝ているだけで、排尿は介護人による運搬で、体位交換すらされていない現実に辟易したばかりか、多発性骨髄腫との鑑別などのための血液検査など何一つやっていない(唯一やったのは骨生検とそれにより引き起こされた骨折!)。それで二週間の入院費用請求が17万円!イルファーのサポート、そしてこれから立ち上げる予定のアリ基金でなんとかサポートをして行きたいが、日本との格段の差のあるケニアの医療事情をまともに見せつけられた気がした。それにしても、アリを見舞うたびに思うのは、どうしてそう達観していられるのだろうかということだ。インシャーラ、神の思うままにと本当に思っているようで、無神教者としては口惜しい。でもそれが医療状況の未熟な世界に生きる人たちの心の安定を図る知恵なのかもしれない。
 ムマジュマの妊娠はおめでたい花火だった。もう9ヶ月なのに、超音波診断士になるために必死で勉強している。プムワニのキャンプの参加がなく小児科は大変だっただろうが、ヘキマの孤児院のメディカルチェックにも参加してくれた。予定日は10月10日だという。きっと元気な赤ちゃんが生まれることだろう。その時は大きな花火を打ち上げようじゃないか。

エピローグ(総括;花火に彩られたキャンプだった) プムワニでの診療を冷静に分析してみる。
 まずHIVの拾い上げ。VCT(voluntary counseling and testing;自発的HIV検査)の推奨については、最近の傾向として、殆どの患者がすでにHIV検査を受けている。しかも年に何回も。ルーチンに3ヶ月ごとに検査しているツワモノもいた。検査の理由はどうであれ、この地域ではこれだけVCTが普及しているということに他ならない。ただこの検査結果に安心して、いつの間にか感染してしまっているという事例は実際あるし、今回もそんなケースに出会った。今回のキャンプでは153人のHIV検査をして、陽性者は4名だった。このキャンプでのVCTの意義はかなり低下してきているとはいえ、検査すれば着実に引っかかるのも事実だ。
 次に最近の大人の患者の症状を考察する。咳と痛み、腹痛、皮膚トラブルは主要症状には変わりないが、変形性膝関節症、高血圧、糖尿病、白内障など日本のどこでも見られるような慢性疾患が来るたびに増えてきているような気がする。そしてその症状も、クリニックが開設しているから行ってみるか的ななんとも必然性がなさそうなものが大半に見える。もちろん前出の髄膜炎のような急性疾患が運び込まれることもあるが、それはレアケースだ。かなり重症な化膿性疾患も五月雨式に現れるが、それも衛生状態がよろしくない環境ではありがちなことだから当然と受け止めている。だから一番求められる処方が、痛み止め、制酸剤、湿布、咳止め、種々の軟膏。20年前に初めて開設した時には、ここが命を守る砦のような気分だったのとは、かなり様相が変化して、日本の一般クリニックのような役割を担っているような錯覚に陥る。年に一回開催される当クリニックが住民に歓迎されつつも、現地のニーズは変わって来ていると理解しなくてはいけない。
エピローグ(総括;花火に彩られたキャンプだった) プムワニに根を張って20年。VCTと一般診療を黙々と続けてきて、地域の住民の信頼度はもちろん高い。そして何より、現地での稲田プロジェクトを側面から支える強力なサポート活動でもあるし、稲田プロジェクトの質の高さの担保でもある。医療従事者のプロが継続して関わり、前年の反省を元に、さらにシステム化が進んで行く診療スタイルは、見ていても素晴らしいチームワークとスキルだと自認している。しかし問題はこれを現地のニーズの変化に合わせてどう維持して行くかということだ。HIV陽性者に寄り添って行くことが、稲田先生のもっとも大切な活動の目的であり、モチベーションだとすれば、それとプムワニでのフリーメディカルキャンプがどうリンクするのかを改めて考え直す時期が来ていると思う。
 数年前から始まったコトレンゴ(HIV陽性の孤児が暮らす孤児院)での、HIV治療サポートプログラムは現状打開の最高のモデルに成り得るのではないだろうか。陽性者がきっちりと治療され、成人となりいつかは医療者となって、自分たちと同じ境遇の子供達のサポートに回る。いや医療者にならなくてもいい、成長した彼らが次のサポーターとして孤児たちに関わることが事業の継続性を担保するはずだ。稲田先生を始めとするHIV治療の専門集団がそこにコミットすれば、もっとアウトカムが明確になってくる。そしてそれが、今年初めて訪問したヘキマの孤児院にも繋がって行く。もちろん松下照美さんが主宰するモヨチルドレンセンターMCCでもいつHIV陽性者が出て来てもおかしくない状況があり、そことの連携も大切な横糸だ。このような子供達への医療支援、サポートが今後の稲田プロジェクトのコアにならないか、最近そう思っていた。
 ついに最大の花火が上がった。稲田先生からの総括。日々のブログに書いた通りだが、上記のような20年の現地の変化を勘案し、また本来のHIV患者に寄り添う趣旨を再認識し彼の出した結論は、とりあえず20年続けて来たキャンプを一回延期して、次のプロジェクトを模索するということだった。私はそれに大賛成である。
 小児を対象としたプロジェクトの再構成、あるは一年先に、再びプムワニで展開する場合のシステムの変更。あるいは、キャンプの対象地域をプムワニから別なところに大胆に移すことも念頭に、十分に考察を加えていかなくてはいけない。そしてそのための資金調達も喫緊の課題だと思う。出資者にも魅力あるプロジェクトを作り出して行くこと、それが私たちの今後の使命でもある。
 アリのことも考えなくてはいけない。イルファーでどこまでサポートするか、万が一アリが長期的休職を余儀なくされた場合に、代わりの実務者をどうするか。あるいはムマジュマの育休中に医療スタッフをどう確保するか、現地での任務を遂行して行くためには、早めに目星をつけておかなくてはいけない懸案である。そういう意味ではせくな急ぐなで、時間をかけてやらなくてはならないだろう。まあ、ケニアのポレポレ気分だ。
 これから日本に戻って、自分に出来ることを考える。まずはそれからだ。いろんな花火があったが、全ては明日に繋がる花火と思っている。
 そして、我々の活動を見守り、時にサポートしてくれた、同僚そして家族に感謝してこのレポートを締めたいと思う。
 ありがとうございました。
エピローグ(総括;花火に彩られたキャンプだった)