2018年ケニア医療キャンプ報告

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

2018年ケニア医療キャンプ報告 / 宮城島拓人(内科医 イルファー釧路代表)

節電の中を行く(9月14日)
 北海道がすべからく停電になったのはわずか一週間前だった。北海道胆振東地震によるブラックアウト。自家発電を稼働しての野戦病院はわずか1日で収束したが、全道にいまだ大きな爪痕を残している。節電の中を行く(9月14日)
 計画停電が取り沙汰されるなかで、我々はケニアに向かう。昨年は出発当日の朝に、北朝鮮ミサイルの北海道上空通過にJアラートが鳴り響いた。一昨年は夏の北海道集中豪雨でJRが寸断されて、札幌には行けないのにケニアに行けるパラドックスを味わった。そしてその一年前は台風直撃で出発さえ危ぶまれた。毎年なにかがあるこの時期だが、その何かが毎年威力を増している。
 それでも、我々は飛ぶ。ケニアが発展途上国にある国だから医療の恩恵を与えたいという傲慢でも上目遣いでも決してない。自分たちの地域医療の延長線上にケニアがあっただけだ。それが毎年の「往診」という形でこうなった。
 北海道釧路だけが、出発の危うさを秘めているわけではない。今年9月4日の関西への台風直撃で、関空が沈んだ。そのあおりを受けて、ケニア行き関空組が大変な苦労を強いられた。関空から飛べないから、名古屋(セントレア)→バンコク→ドバイ経由に急遽変更。そしてそれを果敢に受け入れて飛んだ。なんという決断力と実行力だ。なんとしてもケニアに行かねばならぬ事象は一体何なのだろう。きっと私と同じなのだ。自分たちの地域医療の延長線上にケニアがあったからだ。すでに、看護師(柳瀬さん4回目、宮本さん3回目、坂本さん3回目、柏谷さん2回目)と渡邉薬剤師(2回目)の先発隊は昨日にはケニア入りして、ロジスティック作業に当たってくれている。
 今年の釧路組は、18年目の私と、初参加の三人。吉河内科医、彼は当院の研修医を経て今年また舞い戻ってきた。嶋崎歯科医師、昨年まで二年続けて参加した藤盛先生の愛弟子で、手品が趣味。村田歯科衛生士、当院の歯科口腔外科に勤務している元気印の女性で、急な参加要請に二つ返事で応えてくれた。
節電の中を行く(9月14日)節電の中の釧路空港は淡々としていた。イルファーのスタッフや家族に見送られ、4人の釧路組は羽田発最終便に乗り込んだ。
 羽田で合流したのは、東京都立小児総合医療センターの3人の小児科医、堀越先生(5回目)、荒木先生(3回目)、米田先生(初参加)と石島鍼灸師(2回目)そして6回目の常連、青山薬剤師。さあ、目指すはドバイ。そこでバンコク経由の神戸組に落ち合うことになる。いよいよ始まった今年のケニア医療キャンプ。なぜこれほどまでに常連が集まるのかその魅力か魔力を解き明かすエピソードを現地から逐一報告するつもりでいる。
では出国!

泡のある風景(9月15日)
 ドバイには予定通りついた。神戸組の3人とも無事落ち合い、いよいよ先発隊を除く12人のケニア部隊が揃った。泡のある風景(9月15日)今年の神戸は、3回連続の海老沢先生と、初参加の津村、森田の両女医さん。神戸大医学部の感染症科から継続して派遣していただいていることに感謝。
 トランジットの時間は生で喉を潤すのが定番。ハイネケンの薄さ爽やかさがタスカーを彷彿とさせる。
 体感気温25度以下の涼しい風の吹くジョモケニアッタ空港では定番の稲田組の熱烈なお迎え。そして一年ぶりに嗅ぐ、ケニアの風と土の匂いに、また来たんだという実感が湧く。
 ノーフォーク・アパートメントという定宿に着くと、先発隊がそれぞれの部屋のレイアウトや食材の買い出しをして待っていてくれていた。懐かしい面々。日本からの医療者17人が揃った瞬間だ。台風や地震、停電などの自然のハンデを物ともせず、ここに揃った勇者たち。稲田先生を始め、アリ、ワンボゴ、マジュマら現地のスタッフの笑顔にも、ここまで準備してきた自負のような頼もしさを感じる。
泡のある風景(9月15日) アパートの隣のホテルでのお決まりの、ウエルカムパーティー。そこにもお決まりのタスカーがあった。泡で始まり、泡で終わった移動の一日。
 明日は、HIV陽性孤児が暮らす孤児院、コトレンゴセンターでの健康チェックがある。子供たちの笑顔に触れることが出来るか、ちょっとの期待と不安を胸に、夜更けの冷たいシャワーを浴びた。釧路の停電を思い出しながら。


コトレンゴへ(9月16日)
 時差のせいだろうか、4時にはすっかり目が覚めた。まだ鳥も鳴かない。それなのにイヌの遠吠えが、大型トラックのエンジン音とともに聞こえてくる。最近のナイロビの交通インフラの整備は著しい。ほとんどは中国が突貫工事的にどんどん作って行くらしいが、アパートの前の行き止まりだった道はいつの間にか幹線道路に結ばれ、朝の交通量が一段と多くなった。コトレンゴへ(9月16日)かと思えば、目の前のナイロビ大学があっという間に高層建築に生まれ変わり、ナイロビタワーと銘打っている。昨年は影も形もなかったものだ。多額の借金を主に中国に対して抱えながらも、都市機能のインフラを急ぐケニアに何か危うさを感じざるを得ない。
 シェフの名前はアントニー。私たちがほぼ毎日のように朝食を摂りに行っていた、アパートの隣のホテルでもコックをやっていたらしい。今年は彼に朝食と一部の夕食のケータリングを依頼することにした。診療に疲れ切った体に、暖かな食事を自宅で食べられるのは幸せだ。もちろん家飲みのタスカーの量も半端なくなるだろう。それでも、外に食べに行く金銭的、肉体的、時間的損失を考えると、ケータリングは大歓迎だ。
 朝8時から、第一日目が始まった。まずは、日本から持参した薬剤や医療用具をプムワニに搬送。コトレンゴへ(9月16日)薬剤の事前管理のために青山、渡邊薬剤師を残して、HIV陽性孤児の待つコトレンゴ・コミュニティーへ向かう。
 車で小一時間のそこは、プムワニの喧騒とは全く異なる静寂の中にある。素晴らしい青空と爽やかな空気。ゆっくりと深呼吸をして、ミッションに取り掛かった。
 流れはこうである。受付で孤児たちは名札を受け取る。そして体重を測定し、写真撮影(成長の記録)、歯のチェックを終えて身体チェックと服薬確認、そしてCD4などの数値確認(データは電子カルテとしてエクセルデーター化してある)。最後に出口で名札を外し、終了のハンコを手の甲に押して解放。想定外の外部の子供たちも紛れてやってきたが、約80人の子供のチェックを終え、ほとんどの子供たちは、しっかり服薬ができており、治療効果も良好だった。しかし高校生が問題になっている。コトレンゴには中学卒業までしかいられないため、成長した彼らは寄宿制の高校に通う。その環境で一気に服薬アドヒアランスが悪化してしまうと言うのだ。確かに、今日来た高校生のCD4は20くらい。ちゃんと薬を飲んでいるというのに!しかし薬剤耐性はなかったということは、飲んでいないということに他ならない。コトレンゴへ(9月16日)コトレンゴでは服薬管理はシスターが行っており間違いないが、一人になるとアドヒアランスが極端に落ちる例だろう。稲田先生が、高校の先生が服薬管理できるシステムを構築しようとする意義はそこにある。
 歯科ブースでの受検者71人のうち、19人に齲歯が見つかったと島崎先生が報告してくれた。この割合はかなり多い。HIVには口腔ケアがとても大切であるのは言うまでもない。この情報は今後のケアの改善生かされることを期待して、コトレンゴを後にした。
 さあ、明日は、喧騒と埃(ほこり)のプムワニでいよいよ本番が始まる。

ビバ!プムワニ!(9月17日)
 昨日はコトレンゴへ行ったので、恒例になっていた午後からの会場設営は現地スタッフのみで行うことになっていた。「俺たちがやっておくから、大丈夫。」と言っていた彼らだったが、夕方青山さんらをピックアップしにプムワニに戻ったら、まだ何も出来ていなかった。まさにポレポレ(スワヒリ語で、ゆっくり、ゆっくりと言う意味)!ビバ!プムワニ!(9月17日)ここはアフリカなのだ。仕方なく現地スタッフと一緒に支柱やら、机やら、薬剤棚(稲田先生が自分で作ってしまった)やらを炎天下の中せっせと搬入することに。あ、食材!途中で買い込んだ肉や魚が車のトランクに置いたままだった!この暑さはやばい。これ以上長居は出来ない。レイアウトは任せたぞ、と言うことで黄昏の中アパートに戻って来たのだが、本当に明朝完成しているのか少し不安のままタスカーを飲んで一夜を明かす。
 杞憂だった。8時半に到着してみると、プムワニのコミュニティーホールは全てのレイアウトが終わって我々を待っていた。電気のない中、夜遅くまで頑張ってくれたスタッフたちよ、Good Job! しかし、画竜点睛を欠くのも良くあること。残念なことに、電気が来てなかった。その為ラボのセットアップが遅れ開始は10時を回っていた。長蛇の列を随分と待たせてしまったが、それからが本領だ。
 内科はオープンにした4つのブースで診療開始。神戸組は海老沢先生をスーパーバイズとして新人をサポート。ビバ!プムワニ!(9月17日)私の隣の吉河先生は、慣れない環境と制限のある薬に手間取りながらも、徐々にペースを会得していた。歯科の二人は開始当初はスワヒリ語堪能のナース(柳瀬さんと柏谷さん)のサポートを受けながら順調に抜歯を敢行していった。これが午前中の最後の患者さんと言ってから随分と時間がたったのでどうしたのかとブースを訪れると、根が深くて大きく張り出していて最後は折れてしまい、完全除去に苦労しましたと、汗だくになって話す島崎、村田コンビ。早くもケニア人の抜歯の洗礼を受けていた。鍼灸も石島君が青年海外協力隊としてケニアで鍼やマッサージを指導した経験を生かし、滞りなくプロの技を披露している。小児科は堀越組3人とマジュマでいつもと変わらぬ流れるような診療をしていたが、特に若手2人の、診療の手が空いた途端に混雑極まりない薬局へ行って調剤のサポートをしている姿は「チーム」を感じる風景だった。ビバ!プムワニ!(9月17日)そんな中でいつも笑顔を絶やさない二人の薬剤師さんが光って見えた。そしてそのブースの隙間を器用に埋めるナースたち。
 終わってみれば、初日だろうがなんだろうが、いつもと変わらないプムワニ診療の風景。こうやって何年も診療初日を淡々と迎えていたのだと感慨を新たにする。ピースが変わってもチーム力は変わらないのだ。
 また来たぜ。ビバ・プムワニ。
 今日の受診者総勢321人(鍼24人、抜歯13人/18人中)。処方箋189枚。


育成選手(9月18日)
育成選手(9月18日) いきなり朗報が飛び込んで来た。イルファーケニアのスタッフであり現地の医師としての重要な役割を担っているマジュマ(クリニカルオフィサー;ケニアでは医師と同じような薬剤の処方ができる医療従事者。いわゆるナースプラクティショナー、日本では特定機能看護師。)が、ナイロビ大学の放射線科エコー検査資格のための講座に入学を許可されたのだ。
 エコーの活躍の場は先進国だろうが発展途上国だろうが、診断のツールとして極めて幅広い。ケニア医療キャンプでも数年前からスマホサイズのポータブルエコーを釧路から持参し、その威力(効果)を目の当たりにした稲田先生が、是非ともイルファーのコンサルティング医療には必要と判断、そこで白羽の矢が立ったのがマジュマだった。彼女もキャリアのステップアップの一つとしての重要な資格であるばかりか、イルファーとしての診療に厚さと信頼性を担保できる事になる。彼女は大学受講の一年間は現在の公職育成選手(9月18日)(オフィシャルなクリニックに務めている)から離れる必要があるが、そこをイルファーで支えながら育成選手として育てていく。最終的には現地の医療職で今の活動が継続できるようにすることが私たちの究極の目的なのだから。
 稲田先生の話では、コトレンゴの卒業生の中にも、看護師などの医療職に就いて、自分と同じような境遇のHIV陽性者のサポートをしたいと言う学生がいるらしい。そういう子供達の成長をイルファーがサポート出来るシステムを作り上げることが、イルファーの将来を決定着けるイベントになるような気がする。その先駆けがマジュマの受講許可なのだ。
 覚悟で臨んだ外来二日目。しかしスタートは穏やかで拍子抜け気味。昨年このキャンプでHBsAbが陽性と判明した患者が来院した。やることは当然エコーでの肝臓のチェック。これはプムワニでも出来る持続性のある医療の一面かもしれない。エコーといえば、今日も胆石が見つかった。右季肋部が痛くて仕方ないと受診した老齢の肥満女性。多くの人たちは両方の下腹部をさすって痛い痛いと言うのだが(寄生虫の原因が多いような気がする)、左右差のある痛みは要注意だ。案の定、腫れた胆嚢と多数の胆石が見つかった。育成選手(9月18日)10月から放射線科に通うマジュマに画像をレクチャーして、有所見であるゆえ早々にケニアッタ病院へ紹介状を書いた。昨年はドクターのストライキで中核病院へ搬送することもままならなかったのを思い出し、昨年の今日だったら、この患者はどうしていただろうと肌寒い気持ちになった。
 そうなのだ、昨年は公的病院のドクターのストライキで、あぶれた患者が大挙して押し寄せたのだった。それがないから今年のキャンプは少し穏やかなのだろうか。でも、これが普通なのだ。今夜は初の外食。エチオピア料理に期待。
今日の受診者総勢389人(鍼33人、抜歯17本/16人中)。処方箋384枚。HIV陽性者が二人出たようだ。

プムワニでグラム染色(9月19日)
 エチオピア料理の魔性にかかったのか、1時間おきに目が覚めた。中途覚醒は特に珍しくはないが、1時半、2時半、3時半、、、、ときっかり一時間ごとに目が覚める。プムワニでグラム染色(9月19日)自分の体の生体リズムが一体どういうことになっているのかよくわからないが、5時半まで数えて起き上がった。まあ細切れな時間を足せばそれなりに寝てるのだろう。
 外来3日目。さあ出発と思いきや、車がパンク。まあこれも日常茶飯事。とりあえず動く車一台で先発隊を搬送。一時間遅れで内科医一人、小児科医一人で外来を始めたが、待合はいきなり長蛇と化す。10時過ぎにやっと後発隊が到着して早々にブースに散る。ホッとした。
 いつものことだが、性感染症の症状を持った人たちが必ず訪れる。男性の場合は排尿痛や尿道口からの膿性分泌物を、女性の場合は帯下の増加や臭いで来ることが多い。多くはクラミジアか淋病かの鑑別になる。女性の場合はトリコモナス膣炎、瘙痒が主体ならばカンジダ膣炎なども考慮しなくてはいけない。もちろんこれらの感染症の中にHIVは紛れている。
プムワニでグラム染色(9月19日) 淋菌の同定には、分泌液のグラム染色が行われるが、それをプムワニでやってしまったドクターがいた。えびちゃんこと海老沢先生。彼は3回目になる参加で、何か現場で進歩あることをと考えて日本から持参したのが、顕微鏡とグラム染色キットだった!
 先生、来たよ。とそれらしい患者を知らせると、嬉々としてやって来るえびちゃんは、患者をラボブースの隅に連れて行き、尿道口からの膿性分泌液をスライドグラスに採取。翌日朝の朝食時はグラム染色標本のカンファレンスと化す。グラム染色の診断は相当の経験と技術がなければ安定しないが、そこは神戸大学感染症科のプロ。彼は、顕微鏡をプムワニのオフィスに置いていくと言っており、神戸大学の派遣が継続する限りこの診断技術は相当な武器となり得る。そしてその延長にはマラリア原虫の顕微鏡での診断がある。ただし、診断が薬剤の選択に直結すれば問題はないが、そこは資源に限界のあるゆえのジレンマがあるのは事実だ。
プムワニでグラム染色(9月19日) 午後は、恒例の学校訪問だった。スラムの巣窟のような足場の悪い細い道を通り抜け、炎天下の中を歩くこと数分。プムワニ・サバイバルスクールはそこにある。ノートや鉛筆などの文具にも困るところだ。現地で調達したノートを始め、各地から集められたボールペンなどの文具、そしてサッカーボール(釧路労災の高橋薬剤師さんが毎年用意してくれる)などなどを持参しての子供達との交流。お礼に踊りを披露してくれるのがとてもほのぼのとして楽しい。彼らは、貧困や孤児という厳しい環境の中で生き抜いている。幸福を追求する権利は誰にでもあるのだ!と心の中で叫んだ。
今日の受診者総勢373人(鍼29人、抜歯15本)。処方箋373枚。

プムワニで咳止めはいらない?(9月20日)
プムワニで咳止めはいらない?(9月20日) 雲ひとつない空だったが、半袖ではやや肌寒く感じる朝。タイヤのパンクも交通トラブルもなく、一行は予定通りに着いた。患者さんたちも、予定通りに(笑)早くから着いていた。すごい列に覚悟を決めた。今日はポレポレでは終わらない。
 診断ソースも時間も限られ、システミックには診断できない状況でどの様に薬を処方するか。そのコツは、症状と処方薬を一対一対応にしておくことだ。彼らの主訴は、目の痛み(刺激症状)咳、熱、頭痛、全身の痛み(関節痛やら足の裏やら背中やら下腹部やら)、腹痛、皮膚のトラブルに集約される。
目の痛み=抗アレルギー点眼薬。咳=咳止め。熱=アセトアミノフェン(現地ではパラセタモール)。頭痛=鎮痛剤。全身の痛み=鎮痛剤。上腹部痛、腹満、呑酸=制酸剤(PPI)。下腹部痛=駆虫剤、あるいは整腸剤。皮膚はちょっと複雑で、抗生物質軟膏、抗真菌軟膏、ステロイド軟膏を使い分けなくてはならないが、わからなければ、プムワニで咳止めはいらない?(9月20日)現地にはWhitefield Ointmentという何にでも効くと謳われている最強の軟膏がある(笑)。まずそれが基本中の基本。もちろんそれだけはない。その中で見逃してはいけないのが、肺炎や腸チフス(typhoid fever)、マラリアなどの重要な感染症や、比較的多い性感染症である。そんな中からHIVを拾い上げる。
 毎年の処方状況を勘案して、釧路での薬剤調達を行なっているが、今年は予想以上に咳止めが不足する事態となった。そもそも現地の薬局にも、日本で売っている様ないわゆる咳止めは数少ない。子供のシロップはたくさんあるのにである。今回は咳を症状としている患者が予想以上に多かったのもあるが、そもそも咳止めはこの地域に必要なのか?と思わざるを得ない。この地域の一番の咳の原因。それは感染でも喘息でもない。おそらく、街中が排気ガスとダストに紛れている環境ではないか。とすれば、咳は止めてはいけないのだ。肺に入り込んだ細かなダスト粒子を外に運び出して気管をドレナージする作用が生理的な咳なのだから。マスクでの防衛や長期的な環境整備計画がなければ、刹那的なせき止の処方は決して有益性が担保できないのではないかと、今日、咳止めがなくなり悶々としながら考えた結論だった。
プムワニで咳止めはいらない?(9月20日) 午前中の診療がフルスロットで動いているころ、松下照美さんがスタッフとともにキャンプを訪問された。ケニアから車で一時間程度離れたティカという街でストリートチルドレンや養育拒否にあった子供達に生活の場(モヨホーム)を与え育てている人だ。我々のグループが、日曜日にモヨホームへ伺う様になってから、毎年キャンプを訪問(慰問)してくれている。その心使いに感謝。日曜日にモヨにいくまで頑張ろうという気になるから不思議だ。ケニアの仲間たちの横のつながりはとても強く感じる。それを同志というのだろう。
 流石に、最後の患者(99人目)を診た後は、安堵と共に強い脱力を感じた。
今日の受診者総勢514人(鍼51人、抜歯18本)。処方箋507枚。

祈りの外来(9月21日)
祈りの外来(9月21日) Eメールは無情だ。どんなに遠く離れていても、良い知らせも悪い知らせも一瞬のうちに運んでくる。
 今日、T先生が亡くなった。釧路労災病院で20年以上の長期にわたり、誠実な臨床病理医として我々を支えてくれていた。進行大腸癌と戦いながらも、大学からの派遣医が来ないゆえに、最後まで私たちの臨床に関わってくれていたプロ意識と責任感。今年の春にやっと療養生活に入ることを決意し、札幌の自宅に戻っていたのに、、、駆けつけられない自分のタイミングの悪さを恥じた。そして泣いた。
 外来5日目。当然今日が診療のピークになる。T先生の面影を心に抱きながら、喧騒の外来に身を投じた。この頃になると始まる薬剤部からの悲壮感漂う声。祈りの外来(9月21日)咳止めなくなりました〜パップ剤切れました〜ステロイド軟膏なくなりました〜そんな中でなんとか辻褄を合わせる処方をして凌いでいく。
 朝、歯科器具のオートクレーブ現場を見に行った。デイスポではない機器を消毒するためにはどうしても高圧滅菌が必要になる。診療の場所であるソシアルホールから徒歩3分程度のところにイルファーのオフィスがある。そこにオートクレーブの高圧釜が置いてあり、日に何度かナース達が交代で行き来する。決して完璧な能力の高圧滅菌ではないかもしれないが、こうやって最小限の感染安全管理レベルを維持しようとする姿は涙ぐましくも勇ましい。ここまでシステムが出来上がっていることに我々は誇りを持ってもいいのではないかと思う。そしてそれを難なくやってしまう日本人医療軍団を改めて尊敬する。
祈りの外来(9月21日) 通訳のモハメドが踝まである白いワンピースでやって来た。KHANZU(カンズ)というモスリムの正装だ。そうか、今日は金曜日。イスラム教の聖なる日だ。午後になると一斉に隣のモスクでお祈りが始まった。スピーカーから大音響で抑揚のある祈りの言葉が途切れなく流れてくる。
彼らはメッカを向いて祈るのだろう。
私だけ日本を向いて祈っても許されるだろうか。
合掌。
 今日の受診者総勢489人(鍼56人、抜歯22本)。処方箋508枚(特に小児にリピーターが多く、登録数よりも処方箋数の方が多い)。


ここに診療の原点がある(9月22日)
 最後の外来は半日と決めている。1時まで頑張ろうという気持ちで皆が各持ち場にちった。
いよいよ薬剤が底をついて来たが、青山さん、渡邊さん両薬剤師の裁量で、なんとか乗り切って来た。
ここに診療の原点がある(9月22日) ついに、内海先生が来た。
2000年のプムワニのキャンプから参加していた、名古屋の血液内科の先生。稲田先生のケニア診療に私も彼と共に参加し、彼と共に育った同志。しかし諸事情により稲田プロジェクトから離れ、アサンテナゴヤというNPOを立ち上げ、ケニアのゲム村というところで医療支援、井戸の採掘やクリニックの建設などの生活環境支援を行って来た。現地の人たちが主体となる活動が軌道にのり、そろそろアフリカの活動から手を引くことを考えているらしい。そういう状況で、自分自身の最後のアフリカ訪問になる可能性がある今回、自分の原点に戻りたかったと彼は言う。同じ志を持ちながら、そのやり方や考え方の違いから袂を分ける団体はよくある。内海先生は去り、私は残った。それでもアフリカの、ケニアの医療事情を憂いHIV診療の先鞭をつけるべき行動目標に違いはない。稲田プロジェクトはプムワニを定点として、HIV陽性者のコンサルテーション医療を構築し、どんどん地域の医療施設との連携を図って行った。合わせて一般診療のこのキャンプを継続することでその活動の信頼性を担保して行った。内海先生は、田舎の何もない村からHIVの掘り起こしを行い、村の医療施設整備の充実と村の医療人の養成を主軸とした。
 その二人が、ついに今日しっかりと握手をした。ここに診療の原点がある(9月22日)なんか涙が出そうだった。今日はもちろん嬉し涙。
 彼は、言う。自分の原点はここで稲田先生と一緒に活動したことであると。20人前後の医療集団を引き連れて、彼は原点に戻り、そして微笑んだ。
 診療は午後2時には終了し、恒例のマサイマーケットへ。しかし、問題が勃発。今朝方から体調不良者が続出し、この私も下痢に見舞われた。幸い私はそれだけだったが、数人は下痢に加えて腹痛、嘔吐の症状。昨日食べたものの何かが原因と思われるが、特定出来ない。とにかく、発症者はアパートに直行し休養となった。明日には皆の回復を願う。
 今日の受診者総勢315人(鍼35人、抜歯8本)。処方箋324枚。
 全外来を通じて、HIV検査数は156人、陽性者は8人(陽性率5%)だった。
 とにかく終わった。

進化するモヨ(9月23日)
進化するモヨ(9月23日) 新人組を中心に、早朝からナイロビ郊外の国立公園にサファリに行った。今年こそライオンを見るんだと意気込む荒木先生に幸福は訪れるといいのだが。
 それにしても、昨日からの体調不良者は小康状態にあるとはいえ、拡大傾向。やはりなんらかの食中毒を疑わざるを得ない。こう言う時は休息が一番。午後のモヨチルドレンセンター訪問までゆっくり体を休めることだ。
 結局3人の要療養者を残して、松下照美さんの待つ、ティカに向かった。
進化するモヨ(9月23日) モヨチルドレンセンターでは十数人の子供達とスタッフが待ち受けて、お互いの自己紹介の後、いよいよゲスト側のメインプレゼンツ、嶋崎先生の手品が始まった。ハンカチの色をかえる手品から、何も入っていない紙袋の中から何度も花を取り出して子供を驚かせたり、絵本のキャンディーを本物に変えたり、やんやの喝采を浴びた。このキャンプで彼が一番目だった瞬間であり、やっと終わって心からホッとしていた彼でもあった。その後は子供達のパフォーマンスとみんなでダンス。空気の薄い高地でのダンスはいささか息が切れる。
進化するモヨ(9月23日) いつもの交流が終わり、今度は車で30分ほどの、山奥の谷間の傾斜にある農場に向かった。松下さんは、いまのモヨホームでのシェルター的な養育の他に、シンナー中毒の子供達を更生させ、自立させるための農場を立ち上げようとしている。70を過ぎてからこのような崇高ながらとても骨の折れるだろう目標を立て実行することに敬意を表する。草の根基金などを使いながら土地を確保し、子供達とスタッフそして松下さん自身も住む家を建てたが、塀に使うお金がなく、クラウドファンディングをして400万を集めた。そうして出来た塀には、寄付者の名前が書き記されている。そこに自分を名前を発見し嬉しくなった。
進化するモヨ(9月23日) 10月頃には、すべてが完成し5〜6人の子供達が入居する予定とのこと。都会の喧騒から離れ、誘惑から離れ、静かに土地を耕しながらシンナー中毒の子供達を更生させようとするのは、まさに薬物の依存を、居場所を与えることにより、すなわち彼らの適正な依存場所を与えることにより解決しようとする素晴らしい試みだと感心した。
 来年は、きっとここで子供達が農業に励んでいるはずです。是非来年も来てください。そう言って農場を眺める松下さんの目はとても澄んでいた。

進化するモヨ(9月23日)

総括(9月24日旅立ちの日)
総括(9月24日旅立ちの日) 総登録患者数2401人、総処方数2285枚でプムワニでの外来は幕を閉じた。昨年は、公立病院のドクターのストライキで想定外の患者が押し寄せた為に2700人以上が訪れたわけだが、今年の数は、一昨年と同等かやや多い印象。HIV検査を行った156人のうち8人(5%)が陽性で、これは最近の傾向と一致する。ただし、一名はPIMAによる迅速測定でCD4が3という結果になり、一同唖然としたものだ。
 キャンプそのものは、初日の電気トラブル、3日目のタイヤパンクトラブル以外はほぼ順調に流れた。施設のレイアウトもほぼ完璧だったし、現地スタッフの通訳、エスコート、受け付け、処方渡しなどの役割分担もかなり組織的に行われていた。ただ、受付担当者にやや個人的な意思の介入があり患者側にクレームが発生した場面に遭遇したが、まあケニアにありがちな小さなことといえばそれまでだ。
 数年前は予定していた通訳がこなかったこともあり診療に支障を来したが、最近は、通訳もほぼ定着している。私たち釧路組の通訳は、ここ数年、モハメド(男性)と、マイモーナ(女性)と決まっており、ことはスムーズに運ぶ。プライベートエリアいわゆる陰部の症状を訴える時は、同性の通訳を求める傾向があり、その点もこの二人の組み合わせはちょうど良い。ただ、どこの国でも同じ若者の生態なのだろう。スマートフォンを離さず、頻回のメールや、ウエブの閲覧をしながらその合間に通訳をしてくれるという雰囲気。国民性だと理解している。
 それにしても、ここ数年携帯どころか、スマートフォンの普及は著しい。多くは中国製らしいが、聞くところによると一台1万円しないらしいし、プリペイカードによる使用は、日本よりも著しく安い。そうと言っても、スラム地区であるこのプムワニでもこれほどまでにスマートフォンが普及しているのには驚いた。そもそも有線の家庭電話などないわけで、セルラーフォンが唯一自分の存在を確認できるある意味ライフラインのようなものだったが、スマートフォンに変わると、それに入り込んだ娯楽的な要素に若者が引きつけけられていることが想像に難くない。
 今年の参加医師は内科医5人、小児科医3人(+マジュマ)、歯科医1人という構成だった。外来の数からいうと比較的余裕があった印象。しかし、特に内科は、外傷などの処置や縫合に時間がかかることがあり、少し余裕がある数がいい。また小児科のシロップなどの処方調整(予製)は結構大変で、今年も若手小児科医のエフォートが大きかった。加えてコトレンゴでの孤児たちのメディカルチェックは小児科の存在は大きい。従って、今後の見通しとしては、小児3人、内科4人を定番として考慮したい。ただし、歯科治療に対する現地の要求は極めて高く、歯科医二人体制が出来るのがベストだ。
 コトレンゴといえば、今年初めて、初日の日曜日に訪問した。どのような流れで80人近い孤児を漏れなく、重複なく診るか。これについては先乗りナースたちが、素晴らしいフローを作ってくれていた。流れはこうである。受付で孤児たちは名札を受け取る。そして体重を測定し、写真撮影(成長の記録)、歯のチェックを終えて身体チェックと服薬確認、そしてCD4などの数値確認(データは電子カルテとしてエクセルデーター化してある)。最後に出口で名札を外し、終了のハンコを手の甲に押して解放。この自主的はルール作りに見られるように、我々派遣された医療人たちは、ただ言われるがままに活動しているわけではない。それぞれのプロ意識をベースとして現地での工夫が可能な環境、日本にはないフレキシビリティ、これこそが医療人のリピーターを増やす原因なのかもしれない。神戸組の海老沢先生はグラム染色キットと顕微鏡を持参した。ケニア3回目になる今年、もっと現地でできることをと模索して実現したのがこの診断技術だった。数年前から釧路組が持ってくるポータブルエコー、昨年から始めた血糖測定もまさに同じ発想に他ならない。こうやって、次に来た時に何が出来るかを考えることも、リピーターの増加に繋がるのだろうと思う。もっとも、閉鎖された環境で、10日以上も気のおけない仲間たちと生活と仕事を共にすることも日本にはないヒューマンコミュニケーションなのであり、それがまた行きたい症候群にかかる原因でもあり得る。
総括(9月24日旅立ちの日) ただし、ここまで頑張ってきているナースの現場での仕事が、本当に日本でのナースの仕事とリンクしているか。言葉の違いや環境の違い、それに、時間的制約のために、ナース本来の患者との関わりが不足しているのは否めないし、それによる葛藤(つまりプロフェッショナルを体現出来ない)も彼らにあるのも事実だ。また、それゆえ、ナースのお仕事はどうしても、多くの隙間を埋める作業にならざるを得ない。時には薬局、時には検査部での採血やデータ管理、時には歯科器具の消毒管理、時には幼児の体重測定、時には皮膚潰瘍の消毒包交などなど。本当に頭の下がる業務だが、自分の発想で工夫して環境を変えることのできないもどかしさを感じているのではないかと愚考する。ただ、繰り返して言うが、ナースたちが作ったコトレンゴの診察フローはピカイチである。来年は看護師は2人としてじっくり看護業務をしてもらうのがいいのかもしれない。今までやっているナースの業務は、その時手の空いている医師がやってもいいし、現地のテクニシャンを雇ってもいい。
 イルファーの無料診療は来年で20年を迎える。自分も改めて振り返って見て、18年もここに通って来たのかと思うと、ある意味驚愕を覚える。その当初、同志として一緒に頑張っていたのが、名古屋の内海先生だった。およそ10年前、組織運営の意見の違いから、稲田先生と内海先生は袂を分けた。稲田先生は、プムワニを定点にHIV陽性者のケアと医療機関からのコンサルテーション(コンサルテーション医療)と定期的な医療キャンプを、内海先生は、ケニアのゲム村での医療支援を継続することになる。そして今年、彼らのグループが我々の医療キャンプを表敬訪問したのだ。総勢20人。我々のキャンプの構造と運用システムの説明を受けながら、熱心にメモをとっていたのが印象深い。2000年の開所当初と今ではその姿が全く違っていることを内海先生も実感していた。
 多くの誤解と間違いを乗り越えて、同じ同志として改めて手を握る。南北朝鮮の首脳が、板門店で握手をしたイメージすら感じた。稲田先生がブレずに20年やって来たことが、また改めて多くの人に認知され共感される。頑固なまでの継続のなせる技に他ならない。
総括(9月24日旅立ちの日) さて、その継続はいつまで継続すべきなのか。内海グループは、ゲム村での医療環境が整い、現地のクリニカルオフィサーやナースなどによって運用が開始されたのを、一つの区切りとして考えているようだ。今後は日本から診療派遣はかなり縮小するものとなるし、内海先生自身はもうケニアに来るのは最後かもしれないと話していた。
 稲田先生の現地でのコンサルティング医療は周辺の医療機関の認知度も高まり、治療失敗例や困難例がどんどん紹介されて来ている。また3年前からのコトレンゴ支援が始まり、一気にケアする陽性者が増えた。現在300人近くいると言う。自分としては、9月の日本医療団による医療キャンプは、稲田先生のコンサルティング医療に日本の医療が繋がることで、そのコンサルトレベルに担保を与える意味と、若手医療人の国際医療体験の提供と教育の意味を感じている。ただ稲田先生のコンサルティングレベルはすでに、周辺の医療機関の知るところであり、我々が改めて医療キャンプを張らなくてもいいのではないかと言う気もする。もちろん若手医療人の体験の場の提供は必要ではあるが、それは二次的な目的でしかない。継続ということであれば、先に書いたように、内科医4、小児科医3、歯科医2、ナース2、そして薬剤師2、歯科衛生士1が理想としたが、継続しないと言うオプションも存在する可能性についても今後吟味していかなくてはいけないと思う。それは極論としても、内科医、小児科医、薬剤師それぞれ一人ずつの編成での、短期的視察という形での派遣もあり得るのではないかと考える。
 最後に、飛行機チケット確保に当たっては、今年も全面的にアイエムエイグループ株式会社/IMA GROUP CO.,LTD.の柴部さんにお世話になった。関空が水没して使えなくなった時にも、いち早く対応して情報を提供、そしてキャンプのスケジュールに変更がないように、早急に代替案を提示していただいた。3年前の台風の時、釧路羽田便が危ういときも常に情報提供をいただき、安心したのを思い出す。本当に感謝している。最近は個人でネットから格安チケットを購入する傾向があるが、危機管理の担保を考えると、今後も柴部さんにお願いするのがベストと思う。
 以上、思いつくままに今年のケニアを総括して見た。最後の最後に、食中毒により多数の体調不良者を出したことは痛烈な反省であるが、幸いみな快方に向かっている。ランチの生野菜の可能性、あるいは誕生日に現地から調達したケーキの可能性を考えて見たが、今後も基本的な防衛手段で対応するしかない。常にtyphoid feverなどの現地の感染症を想定したレボフロキサシンの常備は欠かせないが、いつも感染症専門医がついている安心感は絶大だ。
 終わった開放感だけに酔いしれずに、自分の体調管理と、明日からの日本での医療にスイッチを切り替えていかなくてはならない。
 改めて、この医療キャンプをオーガナイズしてくれた稲田先生に感謝するとともに、職員の派遣を快く了解してくれた野々村院長、釧路で留守を預かってくれている同僚、そして家族に感謝する。

総括(9月24日旅立ちの日)