ケニアレポート(2011)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

2011年ケニア・ナイロビ・メディカルキャンプ報告 / 田村隆明(広島市)

「出発」9月16日
 とうとうその日が来た。
小雨降る夕暮れの広島。重いスーツケースを引っ張り、広島駅目掛けて走る。重いスーツケースの中には日本の製薬メーカーから寄付された医薬品とパスポート、そして若干の食料と書類たち。世の中は決算月を迎える9月という時期。頭の中は、仕事の見通しと、これから向かうナイロビのスラム街での過酷な環境下を無事過ごせるかという不安が交錯する。
 時間がない。何とか関西空港行きの新幹線に飛び乗る。しかし、心と身体は密接だ。何故だ。動悸が止まらない。拭いても拭いても流れ落ちる汗。どんなに心を落ち着けようとしても、様々な目に見えない不安が心の奥底にあるのだろう。夜だというのに交感神経が亢進しているようだ。到着予定の時間を関西空港で待つ宮城島先生にメールを送る。「心配するな。ちゃんと待ってるぞ」−。
有難う先生。この返信を見て、片道2時間の関空行きの列車の中でしばし心の整理を行なう。
 関西国際空港。出発ぎりぎりの到着だ。一年ぶりの宮城島先生との再会。出発まずは空港カウンターでチェックインを行い、今回のケニア参加のメンバーと挨拶を行なう。釧路からは宮城島先生、内科医の村中先生、宮城島先生ジュニアの流体力学専攻の大学院生宮城島圭人さん、そして名古屋からは内科医の山本先生、外科医の長谷川先生、山本先生ジュニアの医学生山本健登さん。簡単なご挨拶を行い、そのまま深夜のエミレーツ航空に飛び乗った。
 イルファー釧路のメンバーとして様々な事業の下支え経験は積んできたが、ある意味、これが初めての最前線での経験となる。僕に何が出来るだろう。後は流れに任せよう。それにしても、流れ落ちる汗は一向に引く様子がない。

「経由地ドバイ」9月17日
 日本時間の午前9時(現地時間午前4時)。約11時間かけて経由地のドバイに到着。これから向かうケニアの環境とはあまりに不釣合いな華やかさ。全く心がときめかない。疲労もあるが、待っているこの先の見えない不安に怖じ気づいているのだ。と、その時、「汗もだいぶ引いてきましたね」と村中先生。やはり内科医師。たった数時間の短い時間の中で、先生は僕の今の精神状態を全て見通していたようだ。これから過ごすこの約2週間、僕は、村中先生の言葉とフォローで心身のバランスを保つ事が出来たのだった。経由地ドバイ
 ケニア国際空港にランディングする直前の眼下のケニアを見下ろした。ここがケニアか。出発から約22時間かけ無事到着した。山崎豊子の「沈まぬ太陽」で知るナイロビ。乾いた大地。喧騒の街。毎年、医療貢献でこの国を訪れる宮城島先生が税関で最大の神経を使うという言葉を思い出した。日本から持参した医薬品について、税関職員が難癖を付けてくることがあるという。決して「医療貢献」ということをケニアという国に押し付けがましく言うつもりはないが、何故そんなことを言うのだろうか。文句をつけて賄賂でも要求したいのだろうか。しかし、そんな野暮なことは考えずに黙ってその国のシステムに従うしかない。黙っておとなしく入国審査を無事通過することに専念しよう。としていたつもりが、僕の異常行動が周囲を驚かせてしまった。
 「Why did you take a picture!」。辺りは静まり返った。3度叫ばれた。それは、眼光鋭い入国審査女性担当官の叫び声だった。彼女の指は一直線に僕を指していた。まずい、写真を撮ってしまった!
 止まる入国審査業務。居並ぶ外国人たちの冷ややかな目。何より、最もストレスのかかる入国審査を無事通過することが重要なこととあれだけ言っていた宮城島先生を固まらせてしまった。
 彼女に何を言ったかは覚えていない。とにかく、Apologizeしかないと、ひたすらお詫び申上げ、写した写真を削除することで何とかカメラの没収は免れた。このおかげで、入国審査の際にメンバーのチェックが厳しくなり、パスポートを見せながら各個人個人の顔写真を撮られることとなってしまった。うな垂れる私。と、そこに、名古屋組の山本先生が、「田村君、そういう時は、あの女性職員に『あなたがあまりに美しかったから写真を撮ったまでですよ』と言ってやらないと」とのアドバイス。国際感覚とウィットに富んだ山本先生のひと言に救われた。とにかく、無事、入国が済み、外で待ってくれている稲田頼太郎先生との再会を果たした。引いたはずの汗がまた溢れ出て、一向に収まらない。

「HIV陽性者フォローアップ」9月18日
 初めてのナイロビの朝。今日は稲田先生のオフィスでHIV陽性の患者さんだけのフォローアップが行なわれる。そこは密集した古いバラック建ての家々の中にあった。2階のオフィスの広いスペースに宮城島・村中医師と山本・長谷川医師の内科ブースを二つ、そしてアメリカから連続参加しているペルー人女性小児科医師のDr.エマのブースを設置した。HIV陽性者フォローアップ
 「Adult medical check」や「Pediatrics」、「Pharmacy」などと書いた紙をついたてに貼り付けていると、とてもこのスラム街には不釣合いな文字を発見した。日本語だ。なんと、「燃える闘魂」。何だこれは!他にも様々な日本語が・・・。これは、過去にメディカルキャンプに参加した日本人クルーによるメッセージだった。決して落書きではなく、そこには熱いメッセージが刻み込まれていた。「燃える闘魂」とはイルファー釧路の須藤事務局長のひと言だ。須藤さんらしい。ここに我々も名前を刻印しよう。
 現地スタッフのアリ、ジョセフ・ワンボコ、トム、アーシャたちと英語で挨拶をする。彼らは優しくインテリジェンスも高いボランティアスタッフだ。そして継続してこのキャンプにボランティアで協力してくれている在ケニア日本赤十字社の五十嵐さんも合流。五十嵐さんは一人ひとりのデータが集約されたフロッピーディスクの入力管理を担当する。私は医学生の健登さん・大学院生の圭人さんと薬剤部門の仕切りに取り掛かった。今日の処方箋は約10枚。明日からの一般外来診療でこそ、薬剤部門担当の本質が問われる。

「一般外来初日」9月19日
 その日が来た。月曜日の混雑するナイロビ市街を車で走り到着した。過去、何度も口にした「プムワニ村」。過去のレポートを読み、国内でのイルファーの様々な事業を行なうたび、頭の中だけにあったその村。想像していたものと現実を一致させる時が来たのだ。そこは村のソシアルホールであり、ベニアのパーテーションで仕切って診療ブースを作る。内科部門、小児科部門、歯科部門、検査部門だ。一般外来初日そして日本からの寄付で持ち込んだ医薬品と現地医薬品をアルファベット順に棚に並べてセッティング完了。
 毎回、薬剤部門の現地スタッフとしてスワヒリ語と英語の通訳を担当しているという女性ボランティアのバトゥーリと挨拶。しっかりしたお母さんのような女性だ。また、フレスカ、バレンタインという二人の若い大卒の女性ボランティアも参加。非常に心強い。医師の管理のもと、事故のないよう精一杯やるだけだ。
 ホールの受付けには驚くべき列の患者さん。日本人内科医師の処方は何とか理解できたが、ペルー人女性小児科医師のdr.エマの処方は難しく、何度も疑義照会に走る。一般診療初日、気が付けば約200枚の処方箋。今日流した汗は、これまでとは違う、こうありたいと願える汗となった。

「想像」9月20日
 イメージしていたこととその現実が異なることはよくあること。ナイロビの天候は赤道直下とはいえ、高い標高に位置するため比較的過ごし易い気候である。今日は晴れ。一般外来診療の2日目がスタートした。
 医学生の健登さんは稲田先生の検査部門に張り付く。そこで、大学院生の圭人さんと私で薬剤部門を取り仕切る。宮城島先生、山本先生などの管理下で働く私たちに、時折、先生方は心配して「問題はないか」とアドバイスをくれる。
 歯科部門の到着が遅れており、本日も内科と小児科を中心とした診察が始まった。鎮痛剤、抗生剤、鎮咳剤、消化器系、呼吸器系、湿布、点眼薬等、様々な医薬品が動く。現地調達医薬品の中にはマラリヤや原虫などといったあまり日本では目にしない医薬品などもある。想像
 しかし思う。こうして日米と現地の医師たちが一生懸命に診察を行っても、使える器材、使える医薬品のラインアップは限られたもので、かつ一時的なもの。本当にその疾患にマッチした然るべき検査機器や医薬品が潤沢に揃っている訳ではないのだ。この現実の中で、先生方の処方箋内容を見ていると、時に苦渋に満ちた処方内容を見ることがあった。例えば、痛み止めと抗生剤。処方箋の横に添え書きされた症状を見ると、どう考えても地元の基幹病院にでも行って入院加療を要するような疾患を抱えているはずだ。しかし病院に通えないため仕方なくこのキャンプの診療に患者さんは来たのだろう。今出来る精一杯の診察と処方なんだ。
 私はイルファー釧路の立上げの時から参画し、毎年秋のキャンプには釧路から宮城島先生をはじめ幅広い職種のメンバーを見送り、「後は国内の留守番は私に任せて、現地で頑張って来て下さい」と、さも物知り顔でいた。自分がこれまで主に後方支援としてコアメンバーの役割を演じていたとするならば、メディカルキャンプの目的は何で、手段はどうであって、どういう状況に現在あるのかというようなことは知っているつもりだった。正確に言うと、想像出来ているはずであった。しかし、あまりにギャップが激しかった・・・。
 寄宿舎に帰り、メンバーのみんなと食事をしながら、思い切って宮城島先生他皆さんに切り出した。
 「ここに来て、初めて分かったことがありました。つまり、ここに来るまで分からない事が沢山ありました」。いつもくどくど回りくどく話す自分が、珍しくひと言だけで言い切った。そうしたのは、「お前でさえ、そんなものだったのか?」という反応が少し恐かったからだった。
 少なくとも自分はコアメンバーとして活動してきたつもりだった。日本でこのメディカルキャンプのことを色々考えたり想像する機会は人一倍多いと思っていた。つまり、考えが十分及んでいると。ある一定のイメージ像は確実に頭の中にはあった。ところが、ここに来て、立ってみて、初めて分かったことがあまりに多すぎた。よって、これはある意味、自分にとっては非常に勇気のいる「告白」でもあったのだ。これまで現地活動の報告はニュースレター化したり、また講演会など、様々な機会を通して情報を発信する側に立っていたにも関わらず、私には想像力が足りなかったと、力不足を反省した。
 凄まじい数の患者さんが押し寄せた一般外来2日目の処方箋枚数は約280枚を数えた。

「動機」9月21日
 今日から医師であり歯科医というアメリカ人のDr.ハーパーと助手のリサ、テイラーの三名による歯科外来もスタートした。歯科は独自の処方箋が作成されており、鎮痛剤と抗生剤が組み合わさったいくつかの約束処方が設定されている。内科、外科、小児科、歯科の処方をさばかなければならない。気持ちを一層引き締めた。
動機 昼食時、私と同じく名古屋から初参加の長谷川先生と話をした。
 先生は私に尋ねた。「何でこういった活動、ボランティア活動をやろうと思ったの?」。
 日頃多忙で時間との戦いをしいられる外科系の先生にやってはいけない方法で、私は、またいつものように、ものすごい前置きから話し始めてしまった。『例えば、僕は元々、道端にゴミが落ちているのを見つけたとしても拾ってゴミ箱に投げるような慈善心に富んだ人間ではありません。時代は変わり、状況も大きく変化をしましたが、仕事柄、HIV/AIDSの問題についてはどこかで決着を付けたいという思いが心の奥底にあったんです。それが旭川で仕事をしている時に旭川WITHというエイズNGOグループの前川勲先生に拾われて、特段知識や技術もないけれども少しは人のためになることを教えてもらい、気が付けば自分が助けられていることに気が付いて・・・』などと。優しい外科医の長谷川先生は、最後まで私の話を聞いてくれた。
 長谷川先生は若くして病院の管理職の要職につき多忙を極めているという。そんな長谷川先生に、今度は私が聞いてみた。『先生はどうしてここに・・・』。
 答えは明快だった。何のてらいもなかった。かっこ良かった。
 一般外来3日目。処方箋枚数は約370枚を数えた。

「紙飛行機」9月22日
 タイトな時間で走り続け、宿舎と診療所の往復の日々。仕事には慣れを感じてきたが、少し疲れもたまってきたようだ。こんな時こそ集中しなければならない。エントランスには既に診療開始前から長い患者さんの列。決して余裕はないのだが、恥ずかしい英語ながらも、ちょっとした合間にはいろんな方とコミュニケーションを図りたいと思っていた。
 小児科のDr.エマ。そしてクリニシャンであるジェラルド。ひっきりなしに押し寄せる子どもの患者さんを診察し続ける二人。疑義照会をかける際には気を遣ったが、常に笑顔で「Yes,come here」とブースの中に迎え入れ快く回答してくれる。駄目だと分かれば患者さんを待たせ、自ら薬剤ブースに直接来て在庫が切れそうになった薬剤は適切な代替薬に随時処方変更を行なって頂く。
 同じように子供たちにも話しかけてみよう。
紙飛行機 診察終了後、昨日の昼休み時間にもホールの外で見かけた少年に話しかけてみた。名前はウゼイファ。13歳。とてもその年齢には見えない小さな少年。昨日今日と二日連続で会話をしたので、彼は私のことを覚えてくれていた。一生懸命に話し掛けてくれる。ケニアの子どもは母国語のスワヒリ語以外に英語が堪能だ。彼の話す英語が早く分からない時、私は『talk to me slowly please』と言う。するとウゼイファは、ささやくように、ゆっくりと話してくれるのだ。それでも駄目な場合は私のメモ帳に文字を書いてもらい意思疎通を図る。日本人は珍しいのだろうか。時折、私の髪を触り、「やわらかい、やわらかい」と言って笑うのだ。
 私は日本から持参したA4のコピー用紙を鞄から取り出し、紙飛行機の作り方を教えてあげた。それは、タイミングをみてプムワニの子供たちとコミュニケーションを取るツールにしたいと思い持って来たものだった。言葉で微妙なニュアンスを伝え切れない部分はジェスチャーで補う。何てことのないただの紙飛行機。子どもたちはあまり接することのない日本人と一緒に紙飛行機を作って遊んだということに喜んでくれたのかもしれない。知らぬ間に何人かの子供たちが集まり、ついにコピー用紙がなくなってしまった。
 『もう紙がないから今日はこれで終わり。また明日おいで』。私はそういってウゼイファと別れた。
 一般外来4日目。処方箋枚数、約360枚。

「小鳥」9月23日
 一般外来最終日の朝を迎えた。
 既に在庫が切れた薬剤が出る中、待つ患者さんの数がすごいことになっている。きっと最終日だということも影響しているのだろう。特に歯科と小児科の待機患者が多い。抜歯をしたのだろうか。小さな子どもの泣き声がホールに響き渡っている。特別緊張感を持って、今日を乗り切ろうと心に決める。相棒の圭人さんも現地ボランティアスタッフのバトゥーリ、フレスカも真剣な眼差しだ。
 途中、患者の切れ目をみては、内科ブースから村中先生たちが調剤作業に来てくれている。横から見ると、先生方もかなり疲れているのが見て取れる。
 もう一つの内科ブースの通訳、バレンタインがやってきた。「Taka、綿花を持って外に来てくれ」。外科の長谷川先生が、ナイフで受傷した青年の外科的処置をホールの外で行なっているというのだ。緊張した。その青年は、喧嘩してナイフで頭と手の甲を切られていた。とてもいかつい風貌の青年は痛みからだろうか、長谷川先生の処置中、ずっとうな垂れたままで、縫合される間、じっとうつむいていた。バレンタインに通訳を頼んで青年の了解をもらい、処置中の写真を取らせてもらう。長谷川先生は淡々と処置をこなす。先生に処置の後の予定として、どのような薬剤を処方されるのかを聞き出し、在庫の有無の確認に走った。
 昼休み。ホールの外に出ると、ウゼイファがいた。色んな話をした。「昨日の紙飛行機をまた作ってほしい。僕は家で2匹の小鳥を飼っているよ。鳥かごを作りたいけど、まだ1個しか作れていないんだ」。彼は一生懸命話してくれた。ゆっくりとした英語で。そして、私と友達になりたいと言ってくれた。
小鳥 ウゼイファと私のところに更に同年代の友達らしい子供たちが集まってきた。沢山の質問を投げかけてくれた。途中、ウゼイファたちよりももっと年上の通りがかりの青年一人が加わった。彼はホールの中で何をしているのか、また、ボスはなんという名前の人かと私に質問してきた。嫌な予感がした。彼は言う。「しばらく食事をしていないんだ。100ケニアシリングだけでいい。お前のボスに言って100ケニアシリングだけくれないか。それでチップスを買うことが出来るんだ・・・」。
 私は何も恐くなかった。ただ、何と言えばよいのか本当に分からなかったのだ。しばらく沈黙していた時、ウゼイファが何かをつぶやきながら通りの方に向かって思いっきり走り去ってしまった。何て言って走って行ったのか分からなかった。ウゼイファ、君は何て言って走り去ってしまったんだ・・・。
 ただ、分かったことはあるよ。あの沈黙の時、君の顔を見て、「Taka、僕は君と友達になりたいのに、急にこんな変なやつが来てしまい、僕の仲間だとは思わないでほしい」という気持ちを顔に表していたよね。 それだけは本当に分かったんだよ。
 ポッケに入っていた釘は鳥小屋を作るためだけど数が足りないんだと言ってたな。小鳥の名前はなんていう名前なんだい?大きくなったら何になりたいと思ってるのかい?
 君とはもっと話をしたかったんだよ。いつか、また、会えるかな・・・。
 一般外来最終日。処方箋枚数400枚弱。誰にも言えない、とても寂しい思い出が残った。

「提案」9月24日
 一般外来を終え、今日のHIV陽性者フォローをもってケニア・フリーメディカルキャンプを終える。
 稲田先生という強力なリーダーシップとお人柄が、これだけ多くの人々をひきつけ、国を超えた大きな事業として進んでいる。これを正に目の当たりにすることとなった。地元の人々からこんなに喜ばれることはないけれども、ケニアという国の政治、経済状況や国民性などを考えると、日本から遠く離れたこの地で稲田先生を一人で戦わせてはいけないと思った。稲田先生は「いや、僕は決して一人でなんか戦ってないよ」と仰られると思う。でも、それくらい、稲田先生の放つエネルギーが凄いのだ。
 一般外来のある日、在ケニア日本大使館の公使が視察にお越しになられた。患者さんで溢れかえっている最中だったが、ここぞとばかり、感じたことや公的機関に求める希望を述べさせて頂いた。公使は一生懸命聞いてくださった。NGOは単なるGOの補完ではなく、NGOだからこそ出来ること、またNGOにしか出来ない事がある。そこを是非、公的機関によるサポートで、より安定した持続的活動が可能となるようにご協力を頂戴したいと思った。
 歴史的にケニアの人々はとても親日的という。実際、自身もそれを感じ取った。子どもたちとの会話の中でも、私が広島から来たというと、滑舌の悪い私の英語が違って伝わり、「FUKUSHIMAは大丈夫だったか?」と嬉しい気遣いあるひと言をもらう場面もあった。提案
 一方で、プムワニ村の中にある小学校「PUMWANI SURVIVAL SCHOOL」を表敬訪問に訪れた際、ライフルを携帯した軍の兵士に護衛されながら歩いたという現実もあった。
 宮城島先生は貧困と混沌、無秩序と収賄、ダストと不衛生と感染、そしてバイオレンスと、ケニアのことを例えて言った。
 帰国して1ヶ月。ようやく心身のバランスが平常心に戻りつつある中で思ったこと。
 治安や経済状況がどんなに異なっても、そこに住む人はその土地に見合った悩みや苦しみを持ちながらも、力強く生きている。だからケニアの人々は可哀相だということはない。日本人は確実に高い経済力を持ってはいるが、ちゃんとそれに見合った悩みと苦しみを持っている。だから何も日本人が優れているというわけではない。お互い、良いところは褒め合って、足りないところを助け合うことは出来ないか。
 想像することは非常に難しい。でも、話だけでも、聞いてほしい。きっと、そこには意味があるということに気が付くはずだから。貴重な経験を有難うございました。還元することが恩返しと考えています。