ケニアレポート(2010)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

フリーメディカルキャンプ'10レポート / 宮城島拓人(内科医 イルファー釧路代表)

序章(たびだち)
カリニ肺炎と多巣性白質脳症(PML)を発症して運び込まれたのが5年前。CD4も50を切っていた若い男性。治療に劇的に反応し懸命なリハビリで麻痺も克服、HAARTも軌道に乗って職場復帰もなし得たスーパーヒーロー。イルファーのイベントには両親と一緒に顔を出して、いつかケニアに行きたいなと笑顔で話してくれていた。いつもたくさんの友に囲まれていた。
そんな彼が、数日前、全身痙攣をきっかけにあっけなく死んだ。空虚感にさいなまれた。なぜ彼が、今、と思った。
不思議なことがあった。
彼の母親が息子の死を笑顔で迎えていた。先生ありがとうと何度も頭を下げられた。
息子が事あるごとに言っていたんです。こんな病気になって、家族やみんなに迷惑をかけた。死ぬときは迷惑かけないでさっと逝きたいって。だからこれが彼の希望した逝き方なんです。
生き方ではなく、逝き方。
それが彼の言葉だとは考えもしなかった。快復後はあんなに元気に振る舞っていたのに、心の奥にはHIV感染者としての苦しみが澱のように溜まっていたんだ。そして同じ苦しみを両親たちも共有していた。彼の突然の死は、本人と家族の苦しみからの解放だったのかもしれない。
これがHIVじゃなかったらどうだろう。
母は息子にしがみつき、泣きじゃくることを許されるのだろう。
どんなに社会を啓発しても、どんなにLiving togetherと唱えても、HIVの偏見は残る。少なくとも当事者やその家族にはひしひしと忍び寄ってくる偏見の影。その影におびえて暮らす日々。日本はまだまだHIV途上国なのだろうか。そして私たちはなんと無力なのだろう。
彼の遺影をまぶたに焼き付けて、私はもう一つの途上国、ケニアに今日旅立つ。

ドバイで一服(9月17日)
釧路から新千歳経由で関空へ、そこで岩手医大の4年生後藤さんと千葉君と合流して深夜に飛び立った。いつも心配するのは荷物の重さ。毎年チェックインの時の計量で重量オーバーを指摘され、地べたでトランクを開けて一部を機内持ち込みに変更するなどの非常事態になっている。しかも今年は供された医薬品の他に、HIVや肝炎、梅毒などの検査キットの段ボール一箱が追加になっており、釧路からの三人の限度重量90kgを優に超えてしまっていた。
関空で。日本組集合そこで岩手の学生さんとあらかじめ秤量相談をしながら、彼らの荷物を20kgに制限して、自信をもってエミレーツのカウンターへ。総計量145kg。余裕ですね。と、カウンターの女性スタッフに微笑みかけられた。やれやれ。まず第一関門突破。
学生さんは、フィールドワークという授業の一環らしい。昨年の夏、稲田先生の講演を聴き、現地での活動への参加を決めたのだと言う。たくましい二人。でも女性の後藤さんのほうがより逞しく見える。本質は明日からのキャンプで明らかになることだろう。
今年の日本組は名古屋組の参加がなく、少し寂しい。いつもは私より年上の頼りになる山本先生や山田先生、そして昨年は稲田先生のご同輩ということだから、還暦を過ぎた山下薬剤師など人生の先輩が多くいたわけで、むしろ私は小ざっぱの部類。かなり気楽な道中だったが、今年は一気にクルーが若返り、私だけが飛び抜けて年寄りになってしまった。そういう意味でも事故のないようにと少し緊張。お酒の量もやや少なめ?
日本では考えられないことだが、ドバイ空港内は、至る所無線LANが飛んでいる。セキュリティーが少し心配だが、うまく便乗させてもらってブログを更新している。ナイロビ便の搭乗まで後5時間。ナイロビには現地時間午後3時ころ着く予定。少しずつ心がケニアに向かっていく。

拍子抜けのケニア(9月18日)
ドバイからのフライトは全くの定刻で乾燥した大地に着いた。
ケニアッタ空港に到着ビザを取得して(これがまた、えらく時間がかかった)やっと荷物受け取りへ。
心配していた段ボールもたいした損傷なくゲット。五人分の荷物をカートに載せていよいよ緊張する税関調査。過去に何度、無意味な検索をされて、薬剤を没収されそうになったり追加課徴金を求められたりしたことがあったことか。トランクを開けられても疑われる物品がなく、観光としか思われないだろう学生二人を先頭に祈るように向かった。
やっぱり、段ボールが税関職員の目にとまった。
これはなんだと。
中身のリスト表をみせながら、HIVや梅毒HBVなどの検査キットですと。
すると君たちはドクターか?
そうです、日本から来ました。
おージャパニーズドクター!ウェルカム、オーケーオーケー
アパート近くのホテルで乾杯!簡単にとおっちゃった。拍子抜けとはこのこと。今まで精神的に苦労してきたのはなんだったんだ!
一度に力が抜けてふらふらになりながら入国。そこに待っていたのは、懐かしい、稲田先生、ドライバーのトム、雑用スタッフのムラーゲ、そしてHIV陽性者であり陽性者団体の長、ワンボゴだった。長いこと逢っていなかった親友に出会った気分。
とたんに元気を取り戻し、すぐに乾燥した大地に溶け込んでしまった自分がいた。
夜は日本組でウェルカムパーティー。懐かしいタスカーののどごしを堪能した。
ニューヨーク組は夜遅く着くという。さあ、10回目のキャンプが幕を開けた。

稲田ハウス(9月19日)
日曜日。恒例のHIV陽性者クリニックが始まった。場所は単身駐在しながら稲田先生がこつこつとリフォームしたイルファー事務所。以前のリヤドクリニック(イスラム教信者の集会場件クリニック)の場所を賃貸したものだ。
昔の雑然とした間取りはすっかり取り払われ、奥に広いホールが作られ、面談室、採決室、薬局、そして一番綺麗な部屋、生化学や血算などの自動測定器が鎮座する臨床検査室が置かれている。ただでさえダストが蔓延するここプムワニで少しでも塵を防ごうと唯一土足禁止になっている部屋でもある。まさに、執念の稲田ハウスといったところ。
今日はそこのホールを利用しての開院だった。
ニューヨーク軍団(診察前のミーティング)勢揃いしたニューヨーク組は、歯科医の古参アフリカ系アメリカ人のレイモンド、小児科医の南米出身のエマ(彼女も5回ほどの参加になろうか)そして初参加のレジデント、インド系シブ。さすがに人種のるつぼと言われるニューヨーク軍団である。
受診する陽性者は、独り一人の情報が入ったフロッピーが渡される。それを持って各ブースへ。ある意味、自家製の電子カルテだ。最後の受診から今日までの健康状態やイベントをチェックし、CD4やウイルス量の確認、前回の生化学検査値の評価などについて、ゆっくり話し合う。そして血液検査。
稲田先生が駐在しての事前準備が周到だったせいか、本日予定の37人の診察は滞りなく午後三時には終了した。アリも自信ありげにマネージメントしている。
診察の合間に、このクリニックについてどう思うかと聞いた。みんな非常に重宝していると。中には、B型肝炎ウイルスのチェックをしてくれたおかげで地域の病院での抗HIV薬の選択の間違いが是正されたと話す人もいた。たまに測るCD4やウイルス量をベースに抗HIV薬を投与するだけの地域の病院やクリニックの中にあって、HBウイルス検査や生化学検査をすることの大切さを陽性者自身が分かり始めて来たことの証であるし、地域の医療機関のイルファーに対する認知度が高まってきたことが証明されつつあると言ってもいいかもしれない。
それにしても、今回のキャンプは出国、入国、そして第一日目と、フラストレーションをほとんど感じることなく過ぎていく。
出発直前に逝った彼が守ってくれているのか。そう思わないでは居られないような今日一日だった。
クラムチャウダーとチキン、そして南アのワインで一日を締めくくった。

ポレポレは健在だった(9月20日)
今日から一般外来。陽性者外来とは違っておなじみのシティーホールを使っての診療。いつものように、ベニヤ板とシーツで仕切ってのブースで、朝から一斉に内科や小児科、歯科、鍼灸が開始する。はずであった。
電気もパーティションの立て板もなんにも用意されていないことが判明。稲田先生の落胆やら嘆きが聞こえてきそうな現場に、やっぱりな〜と変な納得をしたのは私だけかもしれない。昨日までのスムーズさに違和感?を覚えていた矢先の出来事だったから妙に納得してしまった。結局、ポレポレ(のんびり)の伝統はそう簡単には無くならない。
それでも11時には診療を開始。待ちくたびれていた患者さんを超特急で診察をすることに。久保先生外来風景初参加の久保先生も、クールとも言える無表情のまま淡々と外来をこなしていたし、岩手医大の二人の学生も、突然薬局に配属されながらも、現地のボランティアと一緒に予想以上にスムーズに処方処理をこなしていた。そのおかげで日の入りコールドまでに、200人程の患者を診察。出足の遅さをなんとかカバーすることが出来た。大島君も今日のような状態で20人の鍼治療を行ったのだからたいしたもんだ。
相変わらずいろんな症状がやってくる。このクリニックで手に負えない重症も担ぎ込まれてくる。リンパ腫も乳がんも急性虫垂炎も、、、。
国立の病院などに診療情報書を書いて持たせるも、はたして何人がそこに行けたのだろうか。結局お金が無ければ何処へも行けない運命を変えることは出来ない。
37人のHIV検査が行われ、陽性者は3人。リピーターの陽性率は減少しているが、新規に検査を受けた人の陽性率は依然高い。
当たり前のことが当たり前にあるのがケニア。ケニアから学ぶべきことは多い。
夜はカレーパーティー。チキンしか食べられないインド系のシブのためにチキンカレー。でも、彼がカレーを褒めてくれた。インド人に褒められたらお世辞でも嬉しい。インド人もびっくりだ!
そろそろ私の料理のデューティーも終わり。明日からは褒める立場にいたい。

二日目は淡々と(9月21日)
時差の関係だろうが、朝が早い。きっかり4時に爽やかな鳥のさえずりで目が覚める。そして5時、ゼンマイ仕掛けのようなけたたましい鳥の大合唱が起こる。この順番は変わらないし時間もいつも同じ。ケニアでは鳥がいちばんパンクチュアル(時間に正確)だ。
ソマリア語とスワヒリ語と英語と一般外来の第二日目。9時半には診療開始。黙々と患者と対峙する。最近、スワヒリ語を話せない患者も多くなってきた。このキャンプを聞きつけて遠くから来る人たち。ソマリアやタンザニアの難民もいる。だから時々通訳が一人増える。現地語とスワヒリ語と英語。それにしても難民の人たちは一層悲惨だ。診察のブースに着くと国連の機関が発行する難民証明書をわざわざ見せてくれる。そこまでして自分を証明しなくても良いのにと、痛ましい気持ちになる。
外では炎天下のなか、列を作ってじっと待っている患者がいる。ランチタイムも惜しんで、とにかく出来る診療を続けた。結局75人の診察をこなした。隣の久保先生もほとんど同じ数をこなしている。啓太くんは鍼灸の患者は30人超えを達成したという。最後に私も彼のリストの一人に加わった。ただひたすら待つ
最後の最後になって一人の少女が受診した。14歳。
姉がエイズで死んだ。私も感染しているかもしれないからと。まだ性的な行動もないというのに。お姉さんの衣服を洗っていたからと言うのだ。そんなことでは感染しない。だから心配しなくてもいい、と話しながらとても悲しい気持ちになる。これだけ陽性者が多い地域にあって、まだまだ間違った感染不安が存在しそれが偏見を助長している現実を垣間見た。
夜になってついに岩田健太郎先生が颯爽と登場。島根医大を卒業後、沖縄で米国式研修を受けた後ニューヨークへ。そこで稲田先生と知り合った。帰国後はエビデンスに基づいた感染対策を提唱し、旧態然とした日本の感染症学に風穴を開けた風雲児。亀田総合病院から神戸大学の教授に抜擢された時の人と行ってもいい。熱帯地域での感染症にも含蓄があり、もちろん英語は堪能だから、このキャンプでは救世主に違いない。
さあ、また明日が楽しみになった。

岩田健太郎登場(9月22日)
一時間遅れで現場に着くと、そこには長い列が出来ていた。お金の両替を街の中でしてきてからの到着だったためだが、日本だったら、遅い!などと文句を言われるはずなのに、だまって待っていてくれる彼らに恐縮して早々にブースへ入り込む。
今日から岩田先生が参加。内科医シブのブースを共有してもらって早速診療開始。
我々釧路組はいつものペースで黙々と。岩田先生を中心に(ランチ風景)隣の壁から岩田先生の甲高いそして早口の英語が聞こえてくる。いいぞいいぞ。さすがニューヨークで鍛え上げられた英語。ニューヨーカーとひけを取らない。
午後の終わりで成人外来がはけてきた頃、小児科はまだまだ待ち人の山だった。
その時、岩田先生が言い放った。私が小児科を診ます。そうやって教育を受けていますから。なんとスマートな人だ。というより、言うことに飾りなくストレートなのが心地よい。
今回岩手医大の学生二人が参加し、薬局を完全に取り仕切ってくれているが、特に帰国子女の後藤さんが、流ちょうな英語を駆使しながら大車輪の活躍をしてくれている。そして東京外語大学の女子学生やナイロビ大学の女子学生が初日から参加してくれているのも頼もしい限りだ。そして今日は、キベラ(ナイロビ最大のスラム街)でのフィールドワークをしていた東大の学生さんが参加。若い力がこうやって自発的に集結してくるのはいままでなかったこと。岩田先生の参入に加えてこの若者たちの協働に、心地よい刺激を感じて外来を終えた。
今夜は、エチオピア料理でも食べにいこう。
あ、そうだ、もう一つ、報告しておくことにする。今年は毎日お湯がでるんだよ〜〜〜。

雨はなくとも(9月23日)
ケニアの冬(南半球にあるから6月から8月が冬)は寒かったらしい。雨もそこそこ降ったようだから、今の乾期にでも昨年のような大干ばつにはなっていないようだ。昨年のキャンプはひどかった。アパートでの渇水は仕方ないとしても、プムワニ村では一週間に一日しか水の出ない日が続いていた。
今年は毎日水が使えるという。しかし、現地に着いてからまだ一度も雨が降っていない。代わりに土埃がいっそう街を覆い尽くす。
一般外来第四日目。隊列を替えた。内科は釧路組とシブの三人にして、岩田先生に小児科に廻ってもらい、エマと二人体制。これでバランスの取れる体制となった。
朝から怒濤の外来。エンジン全開という感じ。小児科も内科も持てるパフォーマンスをフルに出し切ったような一日だった。
気になったことがあった。今日もスワヒリ語を話せない人たちがずいぶん訪れた。多くはソマリア人だった。通訳に聞いてみた。プムワニの周辺にどんどんソマリア難民(refugee)が集まってきているという。確かに今ソマリアは大変な政治不安の中にある。貧困も著しく、アラビア海ではソマリアの海賊が頻回に闊歩していることは記憶に新しい。そんな世界情勢がここプムワニのキャンプでリアルタイムに反映される。
公使とともに外来の途中に、ケニアの日本大使館の公使達が訪ねてきた。物腰の柔らかい公使が、ブースの一つ一つを訪れてヒアリングをしていた。天皇陛下の謁見を観ているようだったが、我々の活動にとても興味を持ってくれたのはありがたい。稲田先生によると、ケニア大使館のホームページ(一度も観たことがないが)で、このキャンプの情報をアップしてくれるとのこと。以前から大使館のドクターがキャンプにコミットしてくれていたが、大使館と言えばケニアでの日本政府に他ならず、彼らとの連携はとても重要だ。
疲れ果てて、久しぶりの湯船に体を沈めて気がついた。お湯が黒い。雨のないプムワニはそれだけ埃にまみれているということだ。

イチローを祝して(9月24日)
イチローが十年連続200本安打を達成した。その日を待っていた。十年連続ケニアに来ている私としては、自分がケニアに居る内にその偉業の瞬間を見たかった。同じ十年連続、イチローにはいい迷惑だろうが、こちらが勝手に仲間意識を持ち、勝手に張り合ってる訳だ。
そして今日、十年連続の最終外来。快晴の中それは始まった。交通渋滞に巻き込まれ、到着が9時半になっただけだったのに、にわか作りのクリニックの入り口には長蛇の列。かんかん照りのなかでじっと耐えていた。
昨日一日で417人の患者が訪れたが、今日はいかほどになるのかとこちらも戦々恐々で試合?開始。
サバイバルスクールの子供達午後に恒例のスクール訪問があった。お金がなくてパブリックスクールに通えない子供達を集めて教育しているボランティアの学校。その名がすごい。survival school、つまり生き残るための学校。一年生から八年生までが学ぶ。毎年訪れている学校だが、昨年その校長が、生徒から集めたお金と我々が寄付したコンピューターやプリンター、それに改築用の資材までそっくり持ち逃げしてしまった。とてもしっかりしていて実直な校長先生にみえていたのに、、、、。とても悲しい出来事だった。
日本だったら、さしずめ校長が被害者で誘拐され物品が強奪されたと思うだろうが、ここは、やっぱり違う。誰もがあり得ることだと納得している。
そんなことがあったからといって毎年の寄付を止める訳にはいかない。子供達は被害者なのだから。今年もノートブックやボールペンなどの文房具の寄贈と相成った。
とにかく十年目の外来はこうして終了した。
初めて来た日本の医療スタッフたちは、自分たちのスクラブ(手術着)に地元ボランティアたちのサインをねだっている。みんなが気安くサインをして交流を確かめ合い、協働を感謝し合う。とてもいい光景だった。
背番号51のイチローと51歳の私。比較にならないが、同志だ。

ポレポレ最後の日(9月25日)
一週間ぶりのHIV陽性者フォローアップの日。
予定の30人どころではなく、半分しか来なかった。加えて予想を超える歯科医の患者が殺到。本来は一般外来で診るべき患者さんだが、現地スタッフが勝手に連れてくる。頼まれれば仕方ないことだし、めったに来ない歯科医に治療を受けさせたという気持ちは良くわかる。しかし、基本的なルールを守らないと大変なことになる。少なくともHIV陽性者とそうでない人を一緒に集めるのは、五十嵐さんとまだケニアの社会ではなかなか受け入れられていない。失敗だったか?
しかしポレポレ。そういう社会なのだ。
のんびり過ぎる時間の中で、ひときわ輝いていたのが、五十嵐さんだった。
薬剤師として働いた後、単身ニューヨークへ。米国の大学院を終えた後に赤十字の一員として働いた後いきなり東チモールへ。環境衛生の仕事に従事しながら一年後にケニアに渡ったという強者。それからもう数年。今はケニア南西部の最貧地域で最も基本的な保健、公衆衛生業務に当たっている。我々のミッションどころでない重積と重労働なのだ。それなのにニューヨークで知り合った稲田先生との繋がりから、こうやってキャンプを手伝ってくれる。頼もしい女性。頼もしい同志。こんな助っ人が代わる代わる現れるのも、このキャンプの素晴らしいところだと思う。
自慢の検査機器今年からフォローアップで血算(白血球や赤血球などの値)の血液検査が出来るようになった。これが優れもので一分もかからずに結果が出る。昨年は生化学が可能となり、今年は血算。CD4もウイルス量も必要に応じて検査で出来る(外注だが)体制が整ってきた。稲田先生の執念が結実しいつつあることを実感する。それは進化だけど、現地の人間のマネージメントがしっかりしないと、今日みたいな暇な日も出来るわけだ。
まあそれもいいだろう。今日ぐらいのんびりしたい。
予定のクライアント(陽性者)が来ないのを確認して、マサイマーケットに土産物の物色へ。いつもの風景だが、値引き交渉もまた楽しい。マサイの人たちとの会話を満喫する。いろんな人との交流、これもまたこのキャンプの醍醐味。
ついに明日が最終日となった。

明日に繋がるために(9月26日)
今までの落下傘部隊的な診療と、不慣れな現地スタッフのフォローアップのみでは限界を感じていた中で、稲田先生が今年の3月から現地に常駐したことの意義は極めて大きい。
アリ、ワンボゴなどの現地スタッフをオンジョブトレーニングで教育しつつ、継続的なHIV陽性者フォロー体制が確立しつつある。
イルファーでは現在100人弱の陽性者を現地ケアーしている。CD4が350以上の人は二ヶ月に一回、350以下の人は一ヶ月に一回、マラティブのイルファー事務所で診療と問診。アポイント日を決めて毎日4から5人を診ることになる。そして今回のように診療部隊が来たときには、その月の予定者をまとめて土日診療に当てるというシステムである。
加えて、新しく導入された生化学検査と血算でHAART(抗HIV薬治療)の副作用チェックをこまめにすることが出来るようになり、患者の恩恵は計り知れない。
HIVクリニック受付今回は、稲田先生が常駐してから初めてのキャンプ。まだ現地スタッフが患者とのアポイントメントに不慣れなせいで、予定された患者が来ないということもあったが、それは仕方ない。
今日は、朝早くにレイモンドがニューヨークに旅立ち、新参加組と外人組がナイロビ周辺のショートトリップに行ったので、稲田先生と岩田先生、そして私の三人で残った(あるいは昨日来なかった)患者さんのフォローアップとなった。
ゆっくりとしたペースの外来である。それでも二人で15人を面談し、血液検査をした。
昼休み、検査機器を動かしている稲田先生を置いて、近くの食堂へ。なんとそこの調理人が、一昨日までボランティアとしてキャンプで働いていたスタッフだった。先週はほとんど一週間仕事を休んで来てくれていたのだ。現地の人と同じピラフランチを食べながら彼らの心意気に感謝した。
子供達へお米を提供(五十嵐さんと富塚さん)午後に、親がいなかったりして、十分なご飯を与えられていない子供達への無償の食事提供の場面に立ち会った。イルファーは毎月米40kgと炭二俵を提供している。ほんのわずかな関わりだが、炊き出しをしているママの顔が明るい。
こうやって、すべてのミッションが終了した。
一般外来では一日400人を超える日が二日もありかなり盛況だった。HIV陽性率は詳細はまだ後だが、5から10%の間に留まりそう。陽性者フォローアップは合わせて65人。そろそろHAARTに移行すべき人が二、三人で、多くは安定している患者だった。来年どれだけの人たちに会えることが出来るだろう。一時、停電になるなどのトラブルに見舞われたが、大過なく終えたことに感謝する。
出発前に逝ったあの彼の笑顔をふと思い出した。
ナイロビの空は青くそして高い。
合掌。

ドバイで考える、キャンプの今とこれから(9月27日)
稲田先生がケニアで医療支援を初めてから10年が過ぎた。そして今回、19回目のキャンプは稲田先生が現地に駐在し継続支援を開始後初めてのキャンプとなった。そのため、準備は怠りなく、キャンプ開始数日前から陽性者フォローアップを開始していたようで、キャンプ初日は実にスムーズに始まった。そういう意味ではなかなか準備が整わなかった昨年までとはかなり違う。
ただ、稲田先生がちょっと目を離すと、事の進捗状況は極めて遅くなりいつものポレポレに戻るのを何度か経験した。有史以前からの文化の違いなのであり、せっかちな日本人の時間軸に合わせるのは基本的に無理なのかもしれない。
時間軸の差違は仕方のないこととしても、HIVの理解は共通にしなくてはならない。HIVは社会的偏見や貧困がベースにあるが故に、ケアに細心の注意を払う。未だにHIVテストの結果が陰性であることを、I am safe. と平気で言ってくる社会なのだ。これは日本にも通ずることで、偏見の解消は教育でしかないことを現地スタッフにも理解してもらわなくてはならない。
一般外来では平日の5日間で1500人以上を診察、今年は岩田先生が小児科ブースを応援してくれたおかげで、エマと二人ずいぶんと小児科診療が進んだ。ただ小児科、歯科、鍼灸ブースではHIVテストを勧めていないので、成人だけのHIVテストは約180人、陽性者は15人(陽性率は8%程度)。全く新規の陽性者は3人、中にはフォローアップ中に陽性が判明した者もいた。今のキャンプがHIV陽性者のフォローに軸足を移したといえども、一般外来での拾い上げはやはり大切である。もっとも拾い上げた後のしっかりとしたフォローアップが大切なことは言うまでもない。それをやろうとして10年がたった訳だ。
外国のNGOがどんなに素晴らしい理想を掲げて活動を始めたとしても、現地の住民の理解がなければ意味がないし、さらに地域の医療機関との連携がなくしては成り立たない。10年を同じ地域(プムワニ)で継続してきたことは、地域の人々との強い繋がりが出来ていると言っていいが、HIVに関する医療機関との連携はまだ不十分かもしれない。
しかし、今回の陽性者フォローアップで、HAARTを処方している近隣の病院から、我々の外来への紹介が数人あった。現地の医療機関では処方はするが、概ね6ヶ月に一回の受診となる。それでは患者の状態把握は不十分であり、それを現地の医師たちが理解してきた結果であると同時に、我々のキャンプの細やかなフォローアップが認知されてきた証拠だと考える。加えて我々が行っている定期的な生化学検査や血算が極めて重要であることを物語っていると言って良い。今後何をすればよいのかが、見えてきたような気がする。
陽性者のフォローアップには携帯電話を使う。スラム地区で携帯など持てるのかと思うだろうが、スラムだからこそ、携帯が一つのライフラインになり得るのだ。彼らの話を聞くと、月使用料は800円程度だという。日本に比べると驚くほど安い。食べる物にも苦労する貧困の中にある彼らであり、日本の常識ではちょっと理解出来ないかもしれないが、携帯での繋がりはもう欠かせないものになっているのだ。それだけ欠かせないものだからなのか、彼らに携帯の番号(9桁)を聞くと10人中10人がそらんじて答える。すごい!私など絶対覚えていない。
今回のキャンプで特筆すべきもう一つのこと。若者の突然のボランティア参加がとても多かったことだ。岩手医大の二人は当初の予定でキャンプに組み込まれていたが、診療初日から、東京外語大に在学しながらケニアでスワヒリ語学校に通っている直さんや、ケニア大学の学生が来てくれたし、ケニアでフィールドワークをしていた東大の学生が一日ボランティアに来てくれたりした。最終日には直さんが外語大の先輩を連れてきてくれた。そうやって、みんなが、受付や薬局、データー入力などの仕事を手伝ってくれたのだ。診療ブースに入りっきりで身動きの取れない医師たちにとって、そしてすべてを一人でオーガナイズしている稲田先生にとって、とても強力な助っ人だった。
加えてケニア在住の逞しい女性、日赤の五十嵐さんと紅茶のフェアトレードの仕事をしている富塚さんのお二人。彼女たちの力がなかったら、孤児への食事提供プロジェクトのみならず、稲田プロジェクトそのものがスムーズに動かなかったかもしれない。今回も大きな力を貸してくれた。こうしてみんなの力でプロジェクトは動いている。涙が出るほどありがたい。
ごはんですよ。稲田先生!ただ、こうも考える。こうやってみんなの力で動いているプロジェクトであるが、やはり稲田先生一人に頼り切る構図は変わっていない。それが彼の信条なのかもしれないが、今彼がこけるとすべてが中断する危険性が常につきまとうのは事実だ。役割分担を真剣に考えないといけない。たとえば財務管理を会計士などの専門家に任せるとか、ロジスティシャンを真剣に育成するなどの方向性を見いだす時期なのだ。これだけ大きなそして継続したプロジェクトに成長させた稲田先生の功績は計り知れないし、彼の回りに人が集まってくるのはまさに彼の人間としての魅力のせいだろうが、彼だけに任せるのはもう限界のような気がする。キャンプを終えた後の疲労困憊した彼の顔を見ると、心からそう思った。

今ドバイの空港の片隅でシートにもたれながら考えている。さすがに私も疲労困憊しているかもしれない。でも心地よい疲労感が体を包む。でも今寝るわけにはいかない。乗り遅れる訳にはいかないから。私には日本での仕事がもうすぐそこにある。
私が10年もこのキャンプに参加出来たのは、自分の勝手な使命感だけではない。
病院の理解、同僚のバックアップ、イルファー釧路そして家族の協力があってこそである。
皆様に心より感謝します。