ケニアレポート(2009)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

フリーメディカルキャンプ09レポート / 宮城島拓人(内科医 イルファー釧路代表)

今、日本を発つ(9月18日)
定刻で名古屋中部空港に降り立った我々を待っていたのは、いつもケニアチケットを確保してくれる旅行代理店の柴部さんだった。また一人懐かしい人に再会。彼の好意で関空まで車で送ってくれるとのこと。高速道路を乗り継いでも4時間近い道のり。恐縮して乗り込んだ車は、なんとシボレーのハイルーフワゴン。ビジネスクラス並みの広い車内でつかの間のゆったり気分。これからのエコノミークラスの席を考えると、今しかないゆとりと思われた。今、日本を発つ(9月18日)7時半過ぎに、関空着。そこでまた山本、山田両先生の懐かしい顔に合う。一年ぶりの再会がこれほどまでにうきうきするものなのだろうか。そうして東京から今回初参加の、山下潔さんに合流。稲田先生のお友達で、薬剤師。稲田プロジェクトをずっと応援してくれている人がついにケニアに参加することに。釧路からは私の他に二回目参加の久保大輔鍼灸師と初参加の内科医大野正芳先生。こうして日本男児?6人が搭乗時間ぎりぎりに顔をそろえて一安心。でも、荷物はやっぱり重量オーバーで、今回は例外なくオーバー分の追加料金を要求された。オーバー1Kgに対して5000円だって!地べたでトランクを開けて、一部手持ち荷物に切り替えて何とか、セーフ!汗をかきながら出国手続きをすませることができた。やれやれ。
そして今、まさに出国。
行ってきます!

今年はスコールで迎えられた(9月19日)
ナイロビのケニアッタ空港までは、ほぼ定刻。ドバイからはうたた寝しながらいつのまにかケニアに降り立っていた。いつも緊張する一場面が出国審査。かつて持参薬剤が没収された経験がトラウマとなり、それ以後なにか密輸しているような気分にさせられるこの時。今回は生化学測定器の大きなダンボールがご一緒とならばなおさらだ。案の定、このダンボールは何だときた。もう素直に、ケニアの無償医療キャンプで患者のために使うと説明するも、なかなか承知しない。それこそ密輸機器かなにかとかんぐっているようだった。時価いくらかとの質問もあり、それによっては法外な罰金?を課そうという魂胆なのかもしれない。しかし、しばらくの押し問答の後、拍子抜けにも、通してくれた。やれやれ、一番いやな行事が終わった。空港には、稲田先生はじめ、地元のリーダーのアリ、運転手のトム、あらゆるサポート役のムラーゲが迎えに来てくれていて、無事の出国審査と再会を心から喜び合った。
今年はスコールで迎えられた(9月19日)荷物を車の屋根に収容しながら、その様子をパチパチと写真を撮っていたら、ガードマンらしき男が寄ってきて、おい、なぜ写真を撮る?ここで撮るのは、イリーガルだ!と。空港の出迎え写真を撮ってなにが悪い?撮ってはいけない機密情報でもあるのか?やれやれ、荷物のいちゃもんは通過したと思ったらまたこれだ。結局、お金(賄賂)が欲しいのだろう。しかし、稲田先生が、医療キャンプの仕事で来たこと、来れば無料で診察してあげると説明したら、とたんに友達になった!
夕方になって、我々の生活の拠点となる、アパートに到着。メゾネット式の構造とそのりっぱさに、久保、大野は大いにはしゃいでいるが、明日からの自炊の試練があるのだぞ。
近くのスーパーに買出しに行ったら突然の雷とスコールに見舞われた。なかなか素敵な歓迎ぶりじゃないか。
遅くにニューヨーク組みが到着する。いよいよだ。
明日は、学校の教室を借りて、HIV陽性者フォーローアップ外来をする予定。
まず、旅の疲れを取ろう。後は飲んで寝るだけだ。

ねじまき鳥は健在だった(9月20日)
朝、6時きっかりに、あの鳥の声で目が覚めた。何十羽もが一斉にからすの声のように、喉から絞り出すような声を上げる。鳥の囀(さえず)りどころではない、鳥の喧騒だ。しかしこれが毎年すばらしい目覚ましとなる。ニューヨーク組みは昨夜遅く着いた。一昨年一緒に仕事をした歯科医のレイモンド。アフリカンアメリカンでバスケットボールプレーヤーでもある屈強な若者。そして内科医のガブリエルとその奥さん。彼は2001年の春のキャンプに帯同しているポーランド系アメリカ人。初参加はインド系アメリカ人のナンジダ女史。小児科を担当してくれる。年齢不詳だがきっとかなり若い元気一杯の子。
第一日目の今日は、HIVの陽性者フォローアップ検診。いつもの会場がダブルブッキング(こちらがいち早く予約しているのだが、現地人の要請で勝手に貸してしまっている。これもまたアフリカ!)のため、いつも寄付に訪れる小学校(孤児やHIV陽性児の教育をしている、慈善的学校。その名をサバイバルスクールという)の一室を借りることになった。
着いてみてビックリした。朝から多くのクライアント(HIV陽性者)が、一杯待っているではないか。昨年までは、情報伝達の不十分さと、現地スタッフの認識の甘さから、ポツリポツリとしか来てくれなかったのに、この違いはなんだ!
ねじまき鳥は健在だった(9月20日)原因の詮索より、今をこなさなくてはと、大野先生とブースにこもりっきりで陽性者の対応に当たった。服薬の確認はもちろんのことCD4のチェックをしたが、主治医からその値をきっちりと説明を受けていない患者にもずいぶん遭遇した。
今年春のキャンプで施行したHIV耐性検査の結果報告が主要なミッションだったが、今回はちゃんと聞きに着てくれる人が多かった。なぜだろう。今年から生化学検査も取り入れられることになったし、我々の活動が現地でもきっちりと認められてきている証拠と理解して対応に力も入ったが、後で聞くところによると、今回受診を薦めた地元グループの取った方法は、受診しに来た人には昼ごはんを提供するというインセンティブを与えていたという事実だった。なるほど、人が来るわけだ。ちょっと寂しくなったが、これもケニアの現実と理解するしかない。食べることが生きるための最も大切なこと変わりないのだ。
しかしどんな理由があろうとも、我々のキャンプに関わってくれる陽性者が増えるのは、決して彼らの不幸にはならないと信じている。
気がついたら夕方。患者のデータが入っているコンピュータとにらめっこをしながらなんとか初日を終えた。40人を越える陽性者と向き合うことの出来た実りある初日となった。心地よい疲労を感じながら、真っ先にタスカー(地元のビール)を飲んだ。

ラマダンが終わって(9月21日)
ラマダンが終わって(9月21日)昨日の喧騒とは打って変わって、とても静かな一般外来の滑り出しだった。現地のソシアルホールに着いたときにはすでにブースの設営が終わっていたし、薬局の立ち上げもニューヨーク組み日本組みも申し合わせた通りにスムーズに出来た。それはラマダンが終わったばかりで街全体が浮かれていて、いたるところに太鼓の音や歌声が響いているなかで対照的だった。
カウンセラー(HIVテストをする前のカウンセリングは省略出来ない)のキャパシティーが少ないために、意図的に受診者制限したためだが、こんなに粛々と事が運ぶ外来も初めてだ。
一昨年、昨年とラマダンに重なったキャンプであったが、それゆえに体調不良の住民も多かったし、空腹のために採血を断念する人も見受けられたが、今回はラマダン明け直後の診療開始となり、むしろお祭り騒ぎでクリニックに駆け込む暇もないというのが本音なのかもしれない。それでも終わってみれば処方箋の数は160を超えており、平年の二割減とは言えこのキャンプの認知度はかなり高いと実感した。
全身の痛み、咳、眼症状がやはり多いとの印象を持ったが、その理由は簡単だ。仕事も家事も肉体労働、そして排気ガスや土埃にまみれているのだから当然の症状なのだ。
途中、HIV陽性判明者のフォーローアップ外来を挟みながら、日が沈む前に業務は終了した。

陽性者と陰性者の狭間で(9月22日)
陽性者と陰性者の狭間で(9月22日)一般外来の二日目。ただ黙って診療するだけならわけもないが、HIV陽性者のメディカルチェックや日曜日に面談した陽性者の生化学検査結果の報告がどんどん間に入る。今回導入した生化学検査機器で計測した肝腎機能、コレステロール、中性脂肪、血糖などのデータを報告。半年に一回しか報告されないHIV変異耐性検査に比べて、三日後には報告出来る体制は、彼らにとってはかなり期待されるシステムかもしれない。今日は12人の検査結果報告をしたが、たった一人、ART(抗HIV薬)の副作用と思われるメタボ系がいたくらいで、ほとんどは正常範囲内。日本の一般成人検診よりもずっと良いかもしれない。結果を聞いて、安心して帰っていく陽性者たちを見ていると、こういうきめ細かなフォローアップこそが大切なのだと改めて感じる。ケニアではARTは無料で処方されるが、ごくたまに(年に1から2回)CD4を測定するだけで生化学検査などもちろんしていない。
HIV陽性でARTを服用している11歳の子供を一人診察した。もちろん母子感染。母親はとうに亡くなっているが、エイズが原因だろう。今は父と二人で生活をしているが、この父親が酒飲みで子供のCD4すら知らないし、知ろうともしない。地元のNGOとイルファーで彼をフォローしているのだが、この先が心配でならない。そんなことを尻目にクリニックを元気に走り回っている。
それだけが救いだ。
今日、宮城島、大野外来で62人の一般外来と、12人のHIV陽性者検査結果報告、1人のHIV陽性者メディカルチェックをした。

祝、百人突破!(9月23日)
一般外来の三日目。会場は今までと同じプムワニ村のソシアルホールだが、今年はじめて物品をその場所に置くことを許された。ということは、一日の仕事が終わってすべて片付ける必要がなくなったということ。ホールの周囲に石造りの壁が巡らされ、セキュリティーが向上したことと、我々の活動に信頼性が高まったことによる当局の許可とのこと。
これは楽だ。昨年までは店開きした薬剤をすべてボックスに収納しては、次の日にまた並べなおすという無駄でしかもとても時間のかかる労働をしていたわけだが、それが省略されたのは大きい。アパートから現地入りしてすぐにストレス無く診療が始められる体制になった。
今日から通訳者が各ブースに固定され(昨日までは、通訳争奪戦のごとくにスタッフが少なかったので、こちらからクレームをつけた結果)なお一層スムーズな外来になった。祝、百人突破!(9月23日)今日は患者が多いと覚悟のうえ、大野先生と同じブースでエンジン全開で診療に当たった。それでも周囲があまり騒がしくなく感じたのは、スタッフが患者待合数をコントロールしているためだった。今までは登録した患者を入れるにいいだけ待合室に導いていたものを、少数単位で誘導することにしたようだ。薬局は、本来内科医の山本先生が陣頭指揮をとり、山下さん、ガブリエルの奥さんの協働作業がうまくいっていた。HIV陽性者フォローアップも少数だったので、今日は外来に完全に専念。宮城島・大野ブースは、ついに一日の患者さん100人を突破!(トータルでは約300人)。そして一生懸命通訳をしてくれた二人と記念撮影(写真)。まだ薬不足のストレスもない時期で、一番能率のあがった一日だったかもしれない。
早めに任務が終了したにも関わらず、夕方のラッシュにぶつかるとこれは大変。本来二車線であるはずの道路が我先にと争う車で三車線にも四車線にもなっている。先に車の頭を突っ込んだものが優先という暗黙のルールと恐怖を感じる。これは初めてナイロビを訪れた時とまったく変わっていない。
しかし帰る途中の車中から一つ最も変わった風景を見た。街の真ん中を流れるナイロビ川。生活排水とごみが無造作に捨てられ、川岸が見えないほどのごみの山と、ところどころで男たちが立小便しているような、まさにゴミ箱以外のなにものでもなかった川に、川岸が戻っているのだ。ごみが除かれた場所には、小さな苗木の植林までされている。GOがオーガナイズしている事業だという。変わったところと変わらないところ。妙なコントラストに空腹も忘れて見入っていた。

生化学検査の意味するもの(9月24日)
キャンプも半分を過ぎた。外来は毎年同じような光景が続いているが、いつもとの違いはHIV陽性者の受診が多いということ。生化学検査の意味するもの(9月24日)ワンボゴやマーガレット(写真)が陽性者のコミュニティーを組織し、自己併発や勉強会をしているが、彼らが我々のキャンプにかなりコミットしてくれている。昼ごはんの提供はインパクトがあったと思うが、今回の最大の目玉、生化学検査導入はそれを超えるインセンティブになりうる。実際ワンボゴに聞いてみた。今まではHIV耐性検査をしても、半年またなくてはならなかった。しかしこの生化学検査はキャンプ中に結果が判明し、今後の生活の指標になりうるからとても役に立つ。
確かにART(抗HIV薬)はメタボ系の副作用を引き起こすため、血糖値を含めたそのての生化学チェックは必須だ(少なくとも先進国では)。ケニアではARTを処方してたまにCD4を測るだけで終わっており、それは現実的に仕方の無いことという意見もある。つまり知ってどうするのだと。
私たちとしては限りなく先進国並みのフォローをしたいと思うのは現実を知らない甘い考えなのかもしれない。しかし現地の彼らがそれを求めているのであれば、我々の出来る限りでの支援は惜しまないつもりだ。この医療キャンプは血をとるだけだと、一部の人間に揶揄されたとも聞いているが、採血の結果がただちに生活指導に反映するのであれば、その批判は当たらないだろう。毎日結果を聞きに来る陽性者たちの笑顔を見ていると、今のキャンプを継続する勇気を貰ったような気持ちになった。
今日も昨日に増して盛況だった。ほとんど席を立たないまま、流れ作業のように患者と接し終わってみれば、宮城島・大野ブースは127人。鍼灸の久保ブースも30人を越えた様子。全体の通しナンバーが1000を超えていたから、今日だけで400人近い人が訪れたことになる。さすがに最後の患者を送り出した時には放心状態だった。
今晩は自炊はやめて、街に出ることにしよう。行き付け?の中華レストランはどうかな。十年近く通っていると行き付けも出来るわけだ。

水が出ない!(9月25日)
水が出ない!(9月25日)ナイロビに着いた日に一時的な雨にあたっただけで、毎日が強い日差しに照らされている。郊外のダムの貯水量が確保出来ずに、ケニアでは水不足と電力不足が続いているとニュースは報じている。マサイ族の牛が水飢饉のためにどんどん死んでいると。
遠い場所の話のように聞いていたのだが、何と今朝、まったく水が出ない!トイレの水がかろうじて、ちょろちょろ。そんな訳で、シャワーも使えず、朝食も昨夜のドギーバックの残り物で済ませるしかなかった。皿すら洗えないのだ。
9月のケニアは雨季のはずなのに、今年は9月に入って一日しか雨が降っていないと、通訳が話している。その一日こそ、我々がケニアに着いたその日だった。この異常気象について、診療の合間に彼らが話したこと。
森の木がなくなって来ていることがおおいに関係があると彼は言う。ケニアでは暖房やクッキングに炭を使う。だからどんどん木が切られていく。それが、土地の保水力の低下を招き、水蒸気の循環の低下から少雨になっている。ここにもかなり重要な人為的な環境変化があると知った。今のナイロビは、一日おきに電気が止まり、土日は水の供給がストップしているらしいのだ。水が出ないくらいでクレームをつけてはいられない、厳しい現実を理解した。
今日は最後の一般外来の日。水がなくても診療は出来る。そんな気持ちで一日を頑張り通した。疲れのピークではあるが、チーム全体がそれぞれの持ち場の仕事に慣れてきたことと、現地スタッフが患者の誘導に長けてきたことで密度の濃い外来となった。日本から持ち込んだ薬に信頼性と、比較的潤沢な現地での薬剤の調達のため処方のストレスが少なくなったのも原因の一つだろう。
診療の合間にHIVテストを勧めるのだが、年を追うごとにすでに検査を受けている人が多くなっている。VCT(自分の意思で検査を受けられるシステム、当然無料)が完全に普及した結果だろう。そういう意味では、我々のキャンプのVCTとしての役割はほぼ終了したと考えてもいい。やはりこの地区のHIV陽性者のフォローアップをいかに有機的に継続していくかが今後問われる。まさに過渡期のミッションが今回のケニア行きだと思う。
とにかく一般診療はこれで終了。埃にまみれながら今夜もシャワーなしでベッドに潜り込む。雲ひとつない空には日本では見たことの無い?星が綺麗だ。これこそ停電地区が多いからかもしれない。

ポレポレの国(9月26日)
毎日の肉料理でいささか食傷気味のなか、今朝は久保君特製のソーメンをすすって、HIV陽性者フォローアップ検診へ。初日についでの第二回目となる。大野、山下、シモン、ナンジダの新参組は、早々にナクル湖へドライブに出かけたが、内科医が四人と歯科医、鍼灸が残っているので、ハクナマタタ(no problem)。
意気揚々と会場の小学校に向かったが、受付に現れたのは、今回HIV検査の結果を聞きに来た人たちが数十人(これは現地のカウンセラーが対応)と、陽性者フォローに見えたのはたった8人程度。この日のクリニックは半日という情報が、現地スタッフから十分伝えられていなかったようだ。初日の50人は圧巻だったが、ちょっと油断するとやはりいつものぽれぽれ(のんびり)のアフリカに戻っちゃう。ポレポレの国(9月26日)稲田先生はマネージメントに関して現地スタッフと厳しい話し合いをしていたが、我々としては予期せぬ休暇になった。
ザーラという通訳の女性がついた。彼女はとても頭が良くて、フォローアップシートに書いてある医学用語を一つ一つ聞いてくるので、その熱心さに驚いたが、将来は医者になりたいという。イギリスに留学して医者になるんだと。そして最後にポツリと言った。お金があればね。
昨日の水不足の話題になった。敬虔なイスラム教の彼女の理解は、こうだ。
雨が降らないのも、最近部族間で闘争が起こっていたのも、すべて神の怒りのため。私たちが心から祈ったとき、雨が降った。すべてはアラー神の意思のまま。人間はsinful(罪深い)から。医学を目指そうする理性的な彼女と世の中の現象を神の意思だと本気で考える彼女。不思議な笑顔を持っていた。
今日のキャンプの受診者は少なかったが、それでもこのキャンプでHIVのウイルス量(VL)が測れると聞いてきた人が何人かいた。現地の病院では、一回5000ksh(約6000円)だからとても手が出るものではない。今回は試験的にイルファーの持ち出しで初めて無料のVL検査を導入したのだ。稲田先生の交渉により、スエーデンに本社のあるケムラボという会社が、我々のキャンプに対して一回2000ksh程度で提供してくれることになった。血清はケニアにある研究所に送って測定を依頼している。VLを知ればかなり正確な病態の把握が可能になるわけで、それを無料で受けられる人々の恩恵は多いはずだ。しかし、本人たちが本当にそれを必要として、このキャンプを訪れなければ意味がない。そういう意味でも現地での陽性者の教育、啓発がさらに必要なのだ。ワンボゴらの陽性者を取りまとめているグループのリーダーとの提携をいっそう強めるためにも地道な教育が欠かせない。
午後遅くなってから、恒例のマサイマーケットでショッピング。日射病になりそうな炎天下のなかで、日本でぬぐいを巻き、ぼろぼろの手術着をまとった変な日本人と、マサイのしたたかな売人との掛け合い。ゲームを楽しむように、イルファー釧路へのバザー用品を漁った。われわれにとってはこれも息抜きの一つだが、彼らは生き抜の手段だ。
日曜日の夜にガブリエル(内科医)夫婦がケニアを立つので、今夜が、全員がそろう最後の晩餐。地味だか日本カレーライスを提供した。あとは、ひたすらタスカー。いよいよ最終章に入った。

恵の雨か、涙の雨か(9月27日)
恵の雨か、涙の雨か(9月27日)小学校での、HIVフォローアップ。今日が最後の日。
一週間前の混雑とは裏腹に、ぽつりポツリと陽性者が集まってくる。
半年の間の状況の確認と、CD4の値の変化などを質問して、全身チェックを行う。
その後歯科医の口腔チェックと、必要な一般薬(風邪気味だの、頭が、体が痛いだの、目がかゆいだと、それぞれがたくさんの症状を訴えるのが常)の処方、そして、血液検査。
フォローアップ検診は、とてもゆっくりと進む。しかしながら一般外来の忙しさとは別の緊張感もある。
店じまいは午後三時。それでも20人を超える人のチェックが出来た。先週の日曜日、今週の土曜日と合わせて80人近くの陽性者を診ることが出来たのだからかなりの進捗だと思う。
我々に期待されていること。受診者に聞いてみる。現地のクリニックでの対応は、かなり雑で短い。CD4も聞かないと教えてくれないし、HIV以外の件についてはかなりラフ。なるほど、そのアナを埋めるのが我々外人部隊の仕事なのだ。しかし、現地医療状況もかなり改善していることは確かだ。次の受診予約を紙に書いて周知を徹底しているし、EFVやTDFなどの新しい抗HIV薬の導入も進んでいる。もっとも、最初のART(抗HIV薬)の組み合わせは、3TC、d4T、NVPが一剤になっている混合製剤であるのは変わらない(日本ではこの組み合わせを最初に処方することはまずないが、ケニアでは安いジェネリックの混合剤が普及しているため仕方ないのだろう)。
診療の終りころ一陣の風が吹いたと思ったら、目の前で竜巻が発生した。地面のごみをあらかた吹き上げて去って、しばらくしてスコール。今回ケニアに着いてスコールに向かえられたわけだが、最後の日にもまたスコールとは出来すぎかもしれない。昨日話した、信心深い女性の祈りが通じたのだろうか。
恵みの雨?しかし、ちょうど、現地スタッフとの別れを惜しんでいたところでの涙雨だったのかもしれない。お互いの協力に感謝し、来年の再会を誓いながら、少し感動で、学校を後にしたところでの雨だった。とっさに思ったことは、明日こそはシャワーを使えるかもしれないという、あまりにも現実的な発想にちょっと自分としてもげんなりした。
乾燥したケニアで、雨に送られて終了したこのキャンプ。明らかなのは、HIV陽性者のケアが本格的に動き出していること。10年続けてきた意義をちょっと感じたキャンプだった。
毎日のことだが、飲んで飲んで締めくくろう。そして、来年以降の青写真をもう一度議論すること。
これが最後の仕事になる。
とにかく終わった。

ドバイで一息(9月29日)
最終日の28日は、プムワニの学校(Child survival school)に行き、勉強に使うノートを寄付しに行った。なんたってsurvivalである。エイズ孤児や他の理由があって公立学校へ行けない子供たちが社会に旅立つための学校。まさに生き残りを掛けた子供たちの学校。いつもは金曜日の午後が定番の儀式だったが、今回は診療があまりにも忙しくて、最終日にずれ込んでしまった。いつもは稲田先生が生徒の前でスピーチをするのを周りで見ているだけ(というより写真を撮ってる)だったが、今回はボスが雑務に翻弄されて行けないので、おまえがしゃべれとの命令。おっと、それは想定外!
ドバイで一息(9月29日)しどろもどろの英語のスピーチはやや冷や汗ものだった。でも、生徒たちはとても暖かく反応してくれた。ありがたいことだ。これも毎年訪問することでお互いの意思疎通が出来上がっているのだろう。大切にしたい交流だと思っているし、子供たちには立派に成長してほしい。
子供たちに見送られて学校を去り、ナイロビのシティーマーケットでみやげ物を冷やかして、空港へ。信じられない渋滞の中、一時間半かけてやっと着いた。文明が急速に進入しているナイロビ。地方からの人口集中が進んでいるにもかかわらずライフラインや道路の整備が遅れていることが、このばかみたいな渋滞を招いているのだろう。毎年渋滞がひどくなるような印象がある。それとドライバーの無作法がさらに渋滞の拍車をかける。
そして今、ドバイに着いた。トランジットの時間が5時間近くもあるので、空港のレストランでやっぱりビールを飲みながら、ブログを発信。これから日本へ帰る。

継続だけではだめなのだ(9月30日)
マリナーズのイチローが、九年連続200本安打達成のニュースを聞きながら、心の中で自分のケニア行きも今回を含めて九年連続になるんだな〜と不思議な感慨をもったのを覚えている。
いつまでも同じことの繰り返しで、いったい私は何をやっているのだろうと自虐的に思うこともあったし、しかし、ちょっとした変化(進化)に喜びを感じ、継続し続ける自分を鼓舞することもあった。少なくとも我々のキャンプは、イチローのように毎年200本を積み上げる偉業とは違う。現地の実情に合わせて毎年変わっていくことが求められる。だから9年連続ケニアに行ったからといって誇れるものでもなにもない。
今年を総括してみようと思う。
変わって来ていること。
1、キャンプの軸足が一般診療からHIV陽性者フォローアップに完全にシフトした。今回訪れた陽性者は80人近く。これは昨年の30人程度を大きく上回った。アリ、ワンボゴ、マーガレットら陽性者のグループのリーダーたちの広報活動もさることながら、HIVの遺伝子変異検査や今年から導入したHIVウイルス量測定、一般生化学検査、受診者への昼食の供与や薬剤の提供などで、当キャンプへ来ることの意義を感じてくれたゆえんだろう。
抗HIV薬は地元ではかなり普及しているのは明らかで、問題はそのケアなのであるから、血液検査を導入したフォローアップを、地元医療機関と協働しながら出来ることが今の我々に求められているサポートだと考える。ただし、月曜日から金曜日までの一般外来も1500人以上の人が訪れた。そのうちの10%程度がHIV抗体検査を受け、暫定値であるがだいたい5%のHIV陽性。陽性率はだんだん少なくなってきているが、これはVCTが普及している結果だと理解する。ゆえに、なおさらHIV陽性者フォローアップが我々に残されたミッションだと思うのだ。
2、肝機能、腎機能、脂質検査、血糖は、ART(HIV治療)を継続いていく上で副作用チェックとして重要である。ARTは無料としても、このような一般検査はそうはいかない。それを今回のキャンプで無料で提供出来たこと、しかも、翌々日には結果を本人に報告出来たことはもう一つの変化だろう。むろん現地のクリニックで測定すれば5000ksh(約6000円)するVL(ウイルス量)を今回初めて導入したことも陽性者への的確な情報提供として大きな変化(進歩)だ。
3、キャンプ当初から地元で協力関係を結んでいた、プムワニ村ヘルスコミティー(PVHC)がかなり脆弱になる中、PVHCとの関係を解消し、我々のミッションに賛同する面々(多くはもとPVHCの仲間たち)を新たにイルファーと雇用関係を結ぶことで、より強い(信頼の置ける)現地実働部隊に変わりつつある。今まではボランティア精神を要求してきたが、まともに日銭を稼ぐことの出来ない彼らに先進国の考えるようなボランティア精神を要求することは所詮無理な話であり、それならばほんのわずかばかりでもサラリーを提供しイルファーの活動にコミットしてくれるほうがずっと能率的だと稲田先生は考えた。これも大きな変化と呼んでいい。
4、以前は、日本から持参した薬剤が頼りで、キャンプの終盤にはその枯渇に戦々恐々としていたが、ここに二、三年現地からの薬剤の調達の流れが進んで、薬剤は潤沢になりつつある。これも、医師を薬剤ブースに専属に貼り付けることで、処方の是非の再確認と、必要薬剤の検討がリアルタイムで行われるようになったためだ。このシステムに至るまでには多くの試行錯誤があったが、ここまで来たのも一つの変化といっていいと思う。しかしないから買えば良いというわけではなく、今後は現地での適切な薬剤調達費の検討と内容の確認が必要となるだろう。
5、ナイロビ市街を東西に流れているナイロビ川の川岸がなんと綺麗になったことよ。以前のブログで紹介したとおり。政府の肝いりで環境整備が進んでいくのが長年通うことで判ってくる例だろう。なんたって一番大切なことは、川岸の美化ではない。衛生管理なのだ。しかし我々の活動の場としているプムワニ村に注ぐナイロビ川は、まだゴミ箱そのままで、川岸には、足の踏み場の無いほどの排泄物と無秩序な住処が密集している。
さて、変わらないこと。
1、今年特に感じたことは、あらゆるネゴシエーションや、準備、会計、検査、参加者のケア、地元活動家との交渉など、どのセクションも稲田先生が先頭でなくては動かない。不眠不休で動いている彼を見ていると、これではいかんと常に思う。これこそ10年前から変わらないこと。ロジスティシャンや会計など、別な人に分担すべきなのに、適切な人がいないということなのだろう。かといって我々がどこまで関われるかは現実の日常を考えると不確実だが、いつまでも彼一人に任せては体力の限界のみならず、イルファーの不健康さが露呈しかねない。毎年、議論していることだが、今回は余計にそのことを感じたキャンプだった。稲田先生の夢を実現すること、すなわちそれがプムワニに住む人々の幸せに通じると信じて我々も関わってきたことは事実だが、もうこれは稲田先生一人の考えで動くには組織とやるべきことが大きくなりすぎたのだ。彼はこの活動を自分のエゴと自嘲気味に話す。でも、それではすまされないところに来ている。この活動がわれわれみんなの希望であり目的となったからには、組織的な役割分担に徹する必要があるのではないかと最後の外来をしながら考えていた。
2、ぽれぽれの現地の人々の対応は、やっぱり変わっていない。最初の日曜日には50人もの陽性者がキャンプに訪れたが、次の土曜日はぱらぱら。陽性者のリーダーは、みんなに声をかけたというのだが、なんとなくのんきな対応。これこそ有史以来変わらないポレポレなのだ。そして政府や行政の対応も、まったくポレポレ。クリニックの開設のための申請も何度も行っているのだが、口約束だけでいつもやり直し。血清を使った共同検査の依頼にも役人の頭が変わるたびにやりなおし。
通訳の1人が今のアフリカの不幸はなにかとさかんに訴えている。彼は言う、poor governance、すなわち政治力がいかに貧弱かと。
政治家になると月のサラリーはいっきに50万ksh(およそ60万円)になるという。それに土地や家屋などの付加的な資産を加えると莫大な財産となる。こんな政治家に一日一ドルを稼げない人々の生活がわかりやしないと口から泡を飛ばして力説していた。じゃあお前がなったら?と言うと、なるために信じられないお金がかかると。政治家だけが富みを搾取し賄賂が平気で横行する政府になにも期待出来ない。同じことだ、このような政府に対して拠点としてのクリニック開設を進言しても、埒が明かないのはもっともなことなのかもしれない。最も変わらないことがこれじゃあ、寂しい。
3、いつ勃発するかわからない、交通渋滞。これはまったく変わっていない。基本的に交通道徳がなっていないのであるからしょうがないのだろうか。とにかく車の頭が一センチでも前に突っ込めば、それで優先権だ。今回のキャンプ中、何度も車同志の衝突を見た。当たり前だ。
たとえば、受診の受付に一列に並ぶようにと話す。しかし、誰もそんなことはしない。たちまち受付のテーブルを取り囲む輪が出来る。車の運転と同じだ。日本人は朝礼の時に整列の教育を受ける(少なくとも私たちの時は)。ケニアにはそれがない。蔑視するつもりはない、理由は簡単だ。生きるために必死なのだ。
明日私は釧路に帰るが、キャンプはまだ終わったわけではない。稲田先生は単身ナイロビに二週間ほど滞在して行政とのネゴシエーションや現地スタッフへの教育に奔走するのだろう。そういう意味でこのキャンプはもう春と秋の間欠的な儀式ではなくなってきている。本当の意味での継続を目指して、プランを立てて行けなくてはいけない時期に来ているのは事実なのだ。
継続だけではだめなのだ(9月30日)継続的な支援と継続的な活動の両輪を作り上げる。今年、初めて参加してくれた稲田先生の小学校の同級生という薬剤師、山下潔さん(写真中央)。彼はイルファー日本の事務局長であるが、それだけでなく、東京で草の根支援の会を立ち上げて活動を始めてくれているのは、とても明るい材料に違いない。イルファー釧路だけでなくこういう運動を全国で展開しながら、おそらく将来現地に駐在することになるであろう稲田先生の活動と経済的支援をサポートすることも一つの我々の出来る道だ。
継続は力なり。しかし進歩がなければ、それは、惰性となる。 キャンプに関わる我々一人ひとりが考えていかなくてはならない難しい命題を突きつけられた気がした。
そして同時に私は今、水とお湯の出る幸せを日本のホテルで噛み締めている。