ケニアレポート(2005)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

ケニア2005日記 / 宮城島拓人(内科医 イルファー釧路代表)

●11月12日
いよいよアフリカへ出発。いろいろあったがやっとこぎ着けたと言う感じだ。第一にイルファー本部の経済的事情。これらの活動のほとんどをドネーション(寄付)に頼ってきたわけだが、最近はエイズに対する認識の低下からかあるいは不況のせいか、なかなかアメリカでもドネーションが集まらないらしい。経済的問題は大きいがしかし継続を優先することにしよう。そのためか今回はいっそうイルファー釧路を背負ってきたという気持ちが強い。さあ、松山君がんばって行きましょうか。今年は関空からドバイ経由でナイロビに飛ぶ。

●11月13日
砂上の楼閣のドバイを飛び立つと眼下は一面の砂漠である。飛行機はサウジアラビアを横切って飛ぶ。朝のフライト、雲ひとつない。あたりまえか、眼下は砂漠である。地面からの蒸発がない、だから雲がない。面白い光景が続く。始めは赤い砂漠と白い砂漠がまだら状を呈しているがそのうちに真っ白となる。まもなく裸の山岳地帯を抜けるとついに紅海にでた。赤くはない。真っ青な海だ。アフリカ大陸もしばらくは白い砂漠が続き赤土の高原となる。そして大地溝帯が近づくにつれ険しく入り込んだ山岳と大地の裂け目が現れる。そしてそこには人の生活の跡が見える。いよいよまたアフリカの大地を踏む。気負いはない。ただ懐かしさがこみ上げてくる。それは昨年のものだけではない。人間として生まれてくる以前の古い記憶から来る懐かしさに違いない。

●11月14日
ケニア2005昨日のケニア入国のさい、こともあろうにトランクを調べられた。そして苦労して運んできた薬を没収。ボランティアで医療活動をしていると言っても規則の一点張り。翌日に審査官の査察があるから出直してこいと言うわけ。そして今日稲田先生と出向いたがどう説明しても、たとえ無料であっても高価な薬剤であり、国内に持ち込まれれば市場経済に影響すると言う。どうすれば良い?と聞くとオフィスに来いと。結局100ドルの補償金?わいろ!で留置解除となった。役人の賄賂体質と彼らの根本的な思考、すなわちスラムの連中には何を援助しても無駄という考えを露呈している出来事であった。さてキャンプ初日のはずの今日、地元の準備が全くできていなく、待ちぼうけの上、明日に延期となった。これもまたポレポレ。我々がせっかちなのか?誰のためにやってるんだよ!と言いたくなる一日だった。しかし、プムワニのボランティアの人たちも、少しずつ意識が変わってきたように思う。何事にも金と言う。クリニックの活動に対して日当がほしいといってきたり、HIV感染者のケアの為にお金がほしいと言ったり。確かに活動には金が必要だ。しかし我々は地域での自助的活動の支援のためのきっかけづくりをしてきたのであって、お金で解決することを意図していない。もう一回このキャンプの原点に帰ってみんなで考え直さなくてはいけないかもしれない。ただし、年々このキャンプで判明して増えていく感染者をどうフォローするか、簡単ではない。

●11月15日
薬局今日がやっとクリニック初日。今回は薬局を我々が最初から管理した。薬の並べ方から登録まで。準備に時間がかかったが、そのおかげでストレスなく処方が出来たし、勝手に持って行かれることもなかった。10時前から診療を開始し、16時過ぎまで。個人的には64人の患者とHIV検査同意は20人。日本からの内科医3人と鍼灸師1人で併せて263人。遅れを取り戻すことができそうだ。本日のHIV陽性率はやはり25%とどうしようもなく高い。クリニックの隣でトレーラーのコンテナを利用した移動VCT(Voluntary councering and test;自発的HIV検査)が行われている。GO(政府)による活動で一週間滞在して次の場所に移動していくという。そこを利用している人たちが目立った。この地元の活動がよりさかんになれば、我々のVCT中心の活動もいよいよ岐路にきたと言えるのかもしれない。

●11月16日
忙しい日だった。最後の登録ナンバーが630程度だったから一日で370人が来たことになる。個人の記録では75人診察して25人のHIV検査の同意を得た。今日は地元から小児科医の応援がきたのでなおさら混雑し喧噪に巻き込まれた印象がある。学校昼休みに近くの学校(プムワニの孤児が中心となって通学している)にいっていつものドネーションの儀式。たくさんのボールペンとノート、そしてコンピューターを寄贈した。相変わらず、ボールペン一本が貴重な生活用具である。夜はモールのある繁華街(ダイヤモンドプラザ)でインドカレーを食べた。稲田先生はかなり疲れている。一人でマネージメントするのはやはり限界じゃないだろうか。ニューヨークで一人奔走し、寄付を集め、ケニア医療活動の計画を練り、実行まですべて一人。彼の負担を軽減するためにも、イルファーの活動をもうすこし透明化し、役割分担していかなくてはならないだろうし、そうしないと長続きできない。我々日本人部隊も受身から脱却するためにもう少し議論が必要だろう。

●11月17日
松山キャンプ三日目。これまでの患者数は1010人。今日だけで380人。個人的には86人診察し25人がHIV検査に同意した。日本から苦労して運んできた薬も底をついてきた。湿布もなくなった。ペインキラー(痛み止め)と抗生剤とガスター(制酸剤)と咳止め、目薬でなんとか明日をこなさなくてはいけない。通訳でありPVHC(pumwani village health committee;プムワニ村の自発的援助団体)のメンバーのリリアンがPVHCの活動について話してくれた。地域での感染予防啓発や感染者のケア、地域の環境改善、母子感染予防プログラムなど多彩だが、なかでも我々のフリーメディカルクリニックをもっとも重視しているという。クリニックを介して地域の人たちとPVHCとの交流が生まれるからだという。キャンプの行き詰まりを感じていた時期でもありすごく新鮮な意見であった。夜は街の中心まで歩いてケニア風?中華料理を食べだ。稲田先生の今年のエイズ学会でのアルトマーク賞受賞のお祝い。彼が長年ニューヨークで行っていた日本人医療者へのエイズケア教育が評価されての受賞であり我々としても本当にうれしいことであった。

●11月18日
ケニア2005何か街の中が騒がしいと思っていたらやっと事情が飲み込めた。今度の月曜日、現在のキバキ体制の是非を問う国民投票があるのだという。プムワニの仲間たちも出生証明書があれば投票できる。街のあちこちで賛成派(バナナ)と反対派(オレンジ)の集会が行われている。時々小競り合い、時に暴動になることもあるらしい。当然のことだが貧困層は体制反対派が多い。そんなわけで、入国審査があんなに厳しかったのだと合点がいく。さて本日第4日目のキャンプ。だんだん少なくなる薬に心細くなりながら、なんとか乗り切った。約300人。個人ブースでは55人とHIV検査が25人。この四日間で明らかな悪性リンパ腫(リンパ節が腫れる血液の癌の一種)が3人もいた。進行した乳ガンも2人。リンパ腫はすべてケニアッタ病院に送ったが、乳ガンの2人はお金がなくて治療が出来ないケースであった。どちらも小さな子を持つ30代の女性。我々としては痛み止めを処方するしか方法がなくなんとも無力を感じる。日本では考えられない現状がある。ここ数年の傾向としては胃潰瘍症状が多くなってきている。病気だけが先進国化している?今回のキャンプで128人のHIVテストで24人の陽性者が得られた。率としては18.8%でいつもより低率であるが、各所で行われているVCTの影響かもしれない。診療が終わり、PVHCから感謝のセレモニーがありなごやかに終わるはずだったが、稲田先生から現場の体制に対する問題提起があり、いっきに彼らの不満や要求が噴出した。稲田先生は初日の準備不足によりキャンプ開催が一日遅れたこと、やはり時々薬剤の紛失がみられたことなどを例にあげ、どういう方向性でこのキャンプを考えているのかという疑問を投げかけたのであるが、彼らにも自分の生活があるし、まったくの無報酬では活動の限界があるとの意見が大勢を占めた。我々自身もちゃんとした方向性を示していないままキャンプを続けてきた反省もある。これからの方向性をお互いにちゃんと認識するべき時に来ているのは事実であり有意義な議論だったとは思うが、結局は活動に必要な金をどうするかにつきる。これもまた大きな現実である。

●11月19日
派遣スタッフまた問題が起こった。本日は午前中にセンターマーケットでみやげ物を物色したあと、PVHCの事務所のあるリヤドクリニックでHIV陽性者のフォローをする予定だった。今回の陽性者と以前からの陽性者で30人程度を予想していたが、なんと来たのは十数人。経過観察者はわずか3人。PVHCの連中はそれぞれがフォローしている感染者に呼びかけたと言うが、、。現在PVHCでは約30人をフォローしているという。今までに7人が亡くなっている。その多くはMbagathi hosp.などで薬剤の投与を受けており、いまさら我々のフォローを受ける必要がないと考えているのかもしれない。確かに、ここに来ても薬ももらえなければ、食べ物ももらえない。彼らにとってベニフィットがないとも言える。もう一度このフォローアップ体制を考え直さなくてはいけないだろう。極論を言えば、すべての感染者が地元の医療機関でフォローされるのならば、今のフォローアップ体制での我々のプロジェクトは必要ないのかもしれない。いずれにしても今回のキャンプは終了。多くの問題が露呈したキャンプだった。

●11月20日
Amboseli国立公園日曜の今日は朝7時30分にホテルを出発して一路東へ、途中モンバサとタンザニアのT字路をタンザニア方面に右折、国境まで走った。それからが算盤道路。約4時間でAmboseli国立公園についた。このサバンナもずいぶん砂漠化しており動物はすみにくそうだった。象がいっぱいいたし、ライオンもみることが出来たが、動物の数は少なかったように思う。それにしても目の前に鎮座するキリマンジャロには圧倒された。さすがアフリカの最高峰である。それだけでも満足した一日であった。帰りは予想はしていたが算盤道路でタイヤのバースト。やっぱりスムーズにはいかない。なにかが起こる。

●11月21日
本日はケニアの国民投票の日であり、休日。クリニックは開けなかった。午前中は保護された孤児動物の動物園にいった。ケニアに行ってまで檻のなかの動物とは変な気がするが、身近に動物にふれられるのはいい。観光気分の後はプムワニに戻って薬剤や道具の整理。これがまた大変。倉から全部出しての棚卸し。管理不足から多くの期限切れの薬を発見。物資管理の大切さを再確認した。ケニア2005夕方にPVHCの幹部の一人のアリとケニア在住の獣医さんでスラムでのボランティア活動を30年近く続けている神戸(かんべ)さんと今後の患者のフォローアップを議論した。ART(抗HIV薬)が無料なのはMbagathi病院ではなく、キリスト教系のSt vinsent病院などであり、それでも健康状態の良い患者のCD4検査は有料。一回1500ksh(2400円)かかるという。我々の意図するところは、定期的にCD4を測定し、200を切るような低下が見られたらARTを導入するようなフォローであるが、フォローのたびごとに1500kshもかかるのであればそうやすやすと検査を勧められない。だから定期的なフォローアップ中にいつ検査を受けるかは、神戸先生に決定してもらい、検査料を前払いしてもらうような体制を作ることになった。ARTはMbagathi病院やKenyatta病院ではそれぞれ200、100ksh(320、160円)/月かかるという。それらに対しては政府からの補助を求めると解決出来る可能性がある。いずれにせよ、CD4を中心としたフォローと服薬管理を、我々のキャンプ以外の期間については、神戸先生を中心にPVHCのメンバーで継続することが必要最小限な条件と感じた。今年はいろいろな問題が噴出したが、こうして一つの結論が出たような気がするし、やっと陽性患者のフォローアップ体制が、単に地元のボランティア精神という良心に頼るだけではなく、地に足がついたものになりそうな気がする。後はイルファー本家の経済状態の建て直しであるが、それは稲田先生の今後に期待しよう。とにかく今回のキャンプは終了した。そして事故なく健康でいられたことに感謝したい。さあ、明日は日本へ帰る。