ケニアレポート(2005)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

毎日、何かしらのトラブルがあった。 / 松山 優(鍼灸師)

関西空港からドバイ経由で20時間、念願だったケニアの地は赤道付近にもかかわらず比較的高地に街があるため20℃位の心地いい気温だった。
日本から苦労して運んだトランク一杯の薬を押しながら出口へ向かう。ケニアでは憲法改正を賛否する国民投票が行われる予定で、国全体にピリピリとした空気が漂っていた。その為か、例年荷物のチェックなどされないらしいが今回はトランクを開けられてしまった。ギュウギュウに詰められた薬は無償で配るため、別に何の負い目も無いのだが、彼らは「営利目的だ!」と、こちらの必死の説得にも応じずトランクごと没収されてしまった。

「出だしでこの調子か、」と嫌な予感。それは大当たりだった。

とりあえず、ホテルに向かい食事をしながら一足遅く合流する予定のキャンプ主催者の稲田先生を待つが・・・来ない。もう合流できてもおかしくない時間なのに現れずフロントにも連絡は届いていない様子。これではキャンプを開けずスタッフ一同青くなる。不安だらけの中、飛行機の疲れを取るため早く就寝。翌日、朝食を取り終えた頃ようやく合流、飛行機の乗り継ぎに間に合わなかったとか。一本乗り遅れて12時間待たされるなんて恐ろしい話だ。
トランクの事情を説明しまずは空港へ。再度交渉するがここはケニア、5時間すったもんだした挙句、結局お金での解決となった。大幅な遅れを取り戻すべく急いでプムワニ村へ行ったが、できているはずの診療施設が何もできていない。ケニア特有のポレポレ(のんびり)気質に稲田先生もあきれ果てていた。
結局、初日は診療を開始することが出来ず稲田先生は現地スタッフにお説教、その間に私たちは診療セッティングの段取りと施設近辺を案内してもらった。施設のすぐ近くに病院があり、その脇の小路を入った所に売春宿があった。といっても看板とかあるわけでもなく入り口の前に女の子たちが立っているだけだが、そこらじゅうに人があふれているので一見しただけではわからない。大通りを挟んだ向かいにはイスラム教徒のモスクがある。村民の約半数はイスラムで彼らは4人まで妻を持てるそうだ。
そんな環境に驚いた。キャンプを開いて6年経つがHIVキャリアは20%台と依然横ばいとの報告に納得した瞬間だった。その日の夜、遅れた分を取り戻すべく全員でミーティングをして次の日に備える。

ケニア2005松山キャンプ2日目、内科が3つに鍼が1つ、採血と薬局という体制でスタート。ふらりと現れた通訳のアシャと2人ですぐに鍼ブースのセッティングにとりかかる。与えられた資材は細長い木の椅子2つと学校で使っている椅子1つだけ!ベットは細長い椅子を並べて固定しビニールをかぶせた。学校の椅子に鍼の道具を置く。椅子一個に道具が納まったときは鍼灸のフットワークの軽さに感激。枕ぐらいは欲しかったので消毒用綿花を束にして作った。
患者さんはすでに並んでいるので早速1人ずつ中へ。60歳位の女性、高齢者の殆どが英語を喋れないのでスワヒリ語を英語に通訳してもらった。僕は何とかその英語を聴き取り治療をする。辛い症状は大体わかるので横になってもらい5本ほど鍼を刺して楽にしてもらった。本当はこの間に色々質問したかったのだが治療用の単語しか覚えておらず、もどかしい思いをした。毎回こうやって語学不足にへこむ。10分後、鍼を抜きマニュアル通りの説明をするが、やはり色々伝えたかった。
こんな調子で休む暇も無く気がつけばお昼ご飯。実はスラムでのご飯にかなりどきどきした。「食えるかな・・」と、出てきたのはカレーぽい食べ物、一口食べてみると・・・いける!『〜マサラ』というケニアの主食の一つ、今日のミートマサラを程なく完食。
一休みしていると見かけない日本人青年がいた(ちなみにここは日本人が1人で来られるような安全なところではない)。物凄く興味が湧きすぐに声を掛けた。彼、アキラさんは旅行中でケニアには2年ほど滞在しているとか。ここの所予定は無いというので明日からキャンプ(もとい通訳)を手伝ってくれるようお願いしたら快くOK。嬉しくて午後の治療もバリバリこなす。このころには治療のコツもつかめるようになった。
帰りに大きなスーパーマーケットに寄り水とお酒を買う。ケニアではお酒が日本よりも高いのだが、地場産のビールとシンバというラム酒は安いのでこれで食後にミーティング。

ケニア2005松山3日目は急きょ小児科をできる現地スタッフが来ることになったのだが、お陰で、薬局は大混乱。物凄い列が出来ていた。1人でこなした岡本さんのスキルは素晴らしいものだった。こちらは朝からアキラさんが来てくれて快適な環境なのだが、何故か並んでいる人が少ない。調べたところ実は日本から持ってきた湿布が大人気で鍼にくる人が減ってしまったのだ。お陰で?じっくり治療をすることにした。鍼に来る人の症状で多いのが腰痛と意外にも膝痛。これはケニアの女性の30歳以降は殆どが肥満で50歳以降は特にひどい。最初に「何故太るんだ?」と聞かれた時、確かに食うものに困るときもあるのに何故だ?と思ったのだが、これは料理に使う油と甘味料によるということが判明した。このため立っているだけで腰と膝に負担がかかるのだ。ちなみに鍼がツボにとどかない人もいて困ることもしばしば。
今日は診療中に色々な事を聞いた。まず憲法改正について。ちょうど日本でも選挙があった時だが、ケニアのような発展途上国では政治に関して日本とは比べものにならないほど関心が高く、投票率も非常に高い。今回の改正案は大統領ほか人並み以上の生活を送れる人に都合のいい法案のようで、当然、村民たちはNO!という人が多い。ところでこの投票用紙、YESならバナナ、NOならオレンジのマークにチェックを入れるのだが、何故かというと国民はバナナが大好物!しかも文盲率が高いので皆バナナにつけるだろうという思惑があったのだ。滞在中よく「バナナとオレンジどっちが好きだ?」と訊かれたが、この質問には「スイカが好きだ」と答えなくてはいけない。危険だから、という体験もした。
その他、近隣諸国や旅の話、日本の事情(驚いたことにケニアの新聞にも日本の話題が載ることが多く、この時は皇室の記事が載っていた)、ケニアの経済などなど。この日はとても満足できる治療もできたし楽しい話も聞けて充実した1日だった。何事も無く1日が終わると思ったのだが・・・ホテルに帰る途中、車のタイヤがパンクし修理に3時間かかるというアクシデントが(泣)。仕事のあとはクタクタなので堪えます。やっとたどり着いたそこはインド街『ダイヤモンド・プラザ』。インドカレーを食べにきました。このインド街はケニアの風景とは別世界!外堀で仕切られ、中は素敵なショップと至る所にネオンが光っている。明らかに中心街より綺麗で、あらためてお金の力を思い知った。途上国に来ると日本のような先進国の資本の力を考えるいい機会になる。

4日目、今日も朝から万全の体制で診療開始。昨日は湿布の人気に押されたが、もう売り切れということで客足も無事戻った。忙しいので、当初は3人ぐらいまとめて治療しようと色々構想を練っていたのだが、椅子の数が足りなくてどうしてもできなかった。次回への課題点である。夕方頃、治療中にカウンセラーのアブナーさんが顔を出してくれた。治療を興味深そうに見ている。しばらくして彼は、「鍼の勉強がしたい」と言い出した。残念ながらこの時は参考になる本は何も持っていなかったのだが、彼の勉強の姿勢にとても感激し来年のキャンプに必ず本を届けると約束した。(英語版の鍼灸本は杏園堂で頂いた寄付金で買わせて頂こうと思います)

5日目、治療最終日。鍼道具の在庫はそこそこあったが、内科、小児科の薬が底をつき始め処方に苦労しているみたいだ。日が落ち始め、いよいよ鍼最後の患者さん!はとんでもなく強烈だった。「小錦」張りの体格をした女性は仰向けに寝ているだけで苦しいと言い出して困った。鍼がゴマ粒にみえました。特に大きな事故もなく無事に鍼診療は終了!手伝ってくれた方々とがっちり握手を交わして「アサンテ・サーナ」(ありがとう!)と感謝の気持ちを伝えた。最後に現地スタッフも交えた全員で記念撮影。
この日の夜は、観光客に大人気の野生動物の料理が食べられるレストラン『カーニボア』に行った。本日の珍しいお肉は「ダチョウ」、「クロコダイル」、など3点ほどでいつもより少なかった様子。店内はとても豪華な造りで隣にはディスコがある。今日は大物ゲストが来ている様でセレブな人たちで賑わっていた。帰りの対向斜線は100台以上の車が並んでおり、車の中は白人が多い。「街中では殆ど見かけないのにいったいどこにいるんだか」とケニアの光と影をみた様で妙な気分になった。
ホテルに戻りディスカッション、稲田先生よりHIVウィルスについての報告を聴いた。ここ2〜3年、どうやら確実にウィルスの耐性化が進んでいることがデータで明らかになった。原因は中途半端な投薬などでおこる事も多く、特にケニアでは薬がそろわない為、ウィルスの変異が起こりやすいという。これを防ぐため今回のキャンプはHIV患者のフォローアップに重点をおいている。

6日目、この日はキャンプ最重要の1つ、HIVキャリアのフォローだ。毎年参加しているサブリーダー的存在の内海先生は、仕事の都合のため一足先に帰国しなければならなかった。宮城島先生、山本先生の2人でカウンセリングに当たり森下先生は検査の最終チェックを念入りに行う。これは本当に大変な作業で、なにせその日告知を受けた人を診るわけだから細心の注意を払わなければならない。
しかしここで最大のアクシデントが・・・30人は来るであろう陽性者が10人程度、以前のフォロー患者に至っては3人しか来ない!さすがに稲田先生もぶちキレた。原因は2日後に控えた投票の大集会が各地で行われた事も大きい。確かにタイミングも悪かったが今回の中核でもあったので稲田先生は休日返上で翌日現地スタッフとミーティングをすることになった。あとは最終日に備品のチェックをするのみだ。

休日はキリマンジャロが見えるということで、4時間ほどかかるが『アセンボリ』というサファリパークに行くことに。長距離なのでスペアタイヤも2つ積み込む。目的地の半分くらいまでは舗装されているのだがそこから先はそろばん道路、ただのワゴン車で行くのはきついものがあった。壮大なキリマンジャロを見たあとパークでお食事。車に戻ると、どうやらパンクしているようで早速交換。2個あってよかった、そう思ったのもつかの間、パークを出てすぐの所で白い道路に黒い物体がブッとんでいくのが見えた。と同時に物凄い振動!あまりの道の悪さにタイヤが一個、完全にバーストしてしまった。「次パンクしたら日本に帰れなくなる」と思うと気が気ではなく、ホテルに着くころにはぐったりしていた。

帰国日前日、疲れのせいか目覚める時間がだんだん遅くなってきた。今日は備品整理だけなので午前中は神部先生が勤めていた動物園を案内してくれた。動物園でチータと戯れ「ハイ、チーズ!」。触れたこともあり大満足。このあとプムワニへ向かう。コンテナ1個分を片付け終えた頃には日も落ち始めていた。孤児院に集まり最後のミーティング、野村さんは10数名の子供たちを相手に折り紙を教えていた。その姿はまさに日本の母といった感じで和やかな場面だ。壁を挟んだ向こう側は現地主要メンバーと長い会議が行われ、今後はケニアで30年近くNGO活動をしている獣医の神部先生に協力してもらいフォローアップ体制を整えていくことが決まった。

数々の課題も残しつつ、フリーメディカルキャンプは幕を閉じた。

毎日がトラブルの連続だったが、貴重な経験ができた今回のキャンプに感謝しつつ「また必ずキャンプに参加しよう」と思いながら、ケニアをあとにした。

●スラムの感想

日本には無い風景が物凄い規模で存在していることには驚いた。そして感じたことは・・・

少し変な見方だが、僕は自然とかより、むしろ人間が造り上げた建物やモノなどに非常に興味が湧き、〜遺跡やらサグラダファミリア、PCなどヒトは凄いものを造るなーと思ったりするのですが、ある意味スラムにも同じような感覚に感じられました。土壁で造られた家が軒並んでいるのを見て、よくここまで造りあげたなと。汚い土壁なのに家の中は外見と違ってかなり綺麗な部屋模様(ハマーンの家)でさらに驚き。色々な売店やカフェ、美容室も沢山ある。悲壮感は確かにあるのかもしれませんが、人々のエネルギーみたいなものがとても感じられました。特に子供たちは日本より精神的に満たされているような印象を受けました。いわゆる自分が想像していた難民キャンプのようなものとは違ったのです。多分、国が本腰を入れて公共面(電気、ガス、水道)や衛生面に取り組み、彼らが仕事を持つことが出来たらスラムとは呼べなくなるのではないでしょうか。
ただ、「あの現状を改善するには想像を越えるような努力が必要だな」と肌で感じました。しかし、行く前に聞いていた印象よりは綺麗だなと感じたので、年々改善されつつあるのかも。

●イルファーの今後

今回キャンプに参加して考えさせられた、イルファーが今後どのように彼らと関わり取り組んでいくか。この点について、最大の焦点はいかにフォローアップの教育システムを創り上げていくかという事ではないかと僕は思いました。

●飢えている人に釣った魚を与えるか、それとも魚の釣り方を教えるか

診療の為の薬を与えるだけでなくどうやって村の人々に教えていくか、そのマニュアルを作っていく時期なのかもと。しかし最大の難関はやはりお金です。私たちは無償で教育できるのですが、現地のスタッフはその知識を活かしてお金を得たい。しかし、そのフォローを受ける人はそのお金を払えない。国でもサポートしきれない。だからといって他国の援助だけでは継続させるのは難しいでしょう。やはり早い段階である程度自国で運営できる体制を創り上げ、私たちがそこに本当の意味でフォローにまわるというのが理想だと思うのです・・・せめてフォローをうける人々にお金を得る何かがあれば良いのですが、そこが全然思いつきません。

ト○タの工場でも作ればいいのに・・現地採用90%で。