稲田先生との出逢いそして今

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

稲田先生との出逢いそして今/ 宮城島拓人(イルファー釧路代表)

セントルークス病院@ニューヨーク 1998年1月凍てつくような寒い朝、ニューヨークのアムステルダムアベニューの一角にその人は待っていた。ニューヨークでのエイズケアプログラムに参加するため、単身渡米した私が、ボストンバッグを抱え恐る恐るセントルークス病院の前に降り立ったときだった。防寒コートにくるまった小さな東洋人が、私の目を凝視し、ニコリともせず言った。稲田です。

世界とくにアメリカがAIDSに震撼している1990年ころ、日本は対岸の火事のようにエイズを捉えていた。エイズの診療経験のない医師がほとんどであったし、HIV/AIDSの医療情報の不足や憶測が、いわれのない偏見や医療差別を生んでいた。そうしたなかで、少なからずの日本の感染者や患者たちは、アメリカに渡って診療治療をうけることを選んだ。ニューヨークで研究のかたわらHIV感染者やAIDS患者のケアに奔走していた稲田先生は、そのような日本人に出逢い、エイズに対する日本の医療事情がいかに貧困であるかを実感する。そうして設立されたのが、日本でHIV/AIDSの診断治療にあたる医師や看護師を養成するための機関、イナダ・ラング・エイズ研究財団(イルファー:ILFAR)であった。まもなくして日本政府やエイズ予防財団もAIDSに関わる医療関係者の養成にやっと本腰を上げるようになり、研修先の一つとしてニューヨークのイルファーに白羽の矢を射ることとなる(言い方を変えるなら、稲田先生がボランティア精神で始めた研修システムに、日本という国があまり努力もせずに、ちゃっかり便乗したともいえる)。そんな事情のなか、1998年、私が北海道からの派遣という形でニューヨークの土を踏むことになったわけである。

まだ一度もHIV/AIDSの診療経験のない日本の北田舎の若造が、のこのこやってきていったい何が出来ようか。そんな落胆とも悲哀ともいえる目を向けながら稲田先生は言葉を続けた。「経験がないのは知っています。厳しい研修になります。」時差ぼけなど吹っ飛んで、背筋に冷や汗が流れたのを今でも覚えている。

それから毎日早朝から夜9時過ぎまで、エイズケア研修が始まった。3週間の時間単位のスケジュール表を渡され、日中は感染症外来や病棟訪問、時にはプライベートクリニックでの研修、末期在宅患者の訪問ケア。あるいはニューヨーク主催のケアプログラムへの参加。カンファレンス夜になると、一日の研修報告発表とディスカッション。そして最後に稲田先生の講習。自分の実験研究は二の次にして、本当に熱心に指導してくれたがその彼の教育態度には鬼気迫るものを感じたのも事実であった。洗脳とはこの様なプロセスを経るのかもしれないと、人ごとのように思ったのも本当だ。彼の講習の合間に次々と電話がはいる。患者からである。薬がなくなった。どうしたらいい?なんか調子が悪い。この薬を飲み続けていいのか?その一つ一つに丁寧な返答をして、時には、よし帰りに薬を持っていってやる、などと約束している。今だからこそ解るが、あの当時から服薬管理の重要性を理解し実践していたのは、私の知る限りでは、彼しかいないのではなかったか。そしてそのたぐいまれな実践力とボランティアという言葉では表現しきれないほどの大きな包容力を私はそのとき理解した。

ケニアメディカルキャンプでの宮城島 ニューヨークから帰って、再び日常の臨床に埋没され、HIV/AIDS研修の成果を十分に発揮出来ぬままもんもんとした日々が流れていた。しかし日本では着実に感染者が増え続けた。釧路でも一人二人と外来の門をたたくようになり、少しずつケアプログラムを実践応用しはじめた矢先の2001年初夏、稲田先生から突然電話があった。「ケニアで実践しているフリーメディカルクリニックに内科医として参加してくれないか?」そういえば、私がニューヨークで研修している時に、ぽつりと言葉を漏らしたのを思い出した。「そのうちアメリカではHIV/AIDSは慢性感染症になる。これからはアフリカだよ、宮城島君。いつかは行こうと思う。」過去に多くの研修生がイルファーを巣立っているのに、なぜ私が?と思う前に、「解りました。」と、即断している自分がいた。やっぱり洗脳されていたのだ。

ケニアメディカルキャンプでの宮城島 2000年7月から稲田先生が始めたケニアメディカルキャンプ。前の年にサハラ以南のアフリカを数カ所訪問して、ケニアナイロビの郊外に拡がる広大なスラム地区を選定、そこに年二回の無料診療所を開設すると同時にHIV感染の実態を把握することを第一の目標とした。最終的には抗HIV薬の供給と服薬管理、母子感染予防をめざす壮大なプロジェクトである。結局誘われた年から連続4年間、ケニアに行き続けることとなった。そしてイルファー釧路の発足に繋がっている。

彼の行動力と包容力。それがどこから来るのか私は知らない。しかしそこには慈愛の精神が見える。ニューヨークという最もアメリカ的な実存主義的な土地で、仏の心を持ち続ける彼に触れることで、何かが変わる。そんな気がする。