ケニアレポート(2012)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

フリーメディカルキャンプ'12レポート / 宮城島拓人(内科医 イルファー釧路代表)

点呼!(9月14日)
点呼!関空に勢揃いしたのは、午後9時を回ったところだった。名古屋組(山本先生と娘さんの瀬衣良)神戸組三人若医者(西村、松 尾、山本)岩手学生六人組(鈴木、久保、郷内、坂本、秋山、松岡)京都からの検査技師(荒賀)釧路五人組(鍼灸師松原、薬剤担当占部、山田看護師、澤田医師、宮城島)。東京からの河瀬看護師が羽田からのコードシェア便の遅れでまだ合流していない が、まずは17人、初顔会わせの挨拶もそこそこにお互いのトランク の中身確認が始まった。回りの目を気にすることなく30kg の重量を均等に割り振りながらのトランクのご開帳。ナイロビでの税関審査が最近の政治情勢で厳しくなったとの情報をうけ、持参薬剤の分散と適正梱包(簡単に言えばうまく隠せるように)を確認。そして最後は決まって、点呼。みんないるかー。修学旅行の騒々しさでケニアへの第一章が幕を開けた。とにかく一人残らずケニアに送り届けること。今はそれしか頭にない。夢にまで出てきそうな、点呼!なんとか出国となる。

休息と助走(9月15日)
休息と助走定刻にドバイ空港についた。これからトランジットで六時間をどう使うか。ブランド品の並ぶショッピングモールをそぞろ歩いていても時間はつぶれない。というわけで、モールの裏で18人が車座になって談合?いえ、初顔会わせの自己紹介を敢行。側を通りすぎるツーリストにアジア人の車座はどう写ったかはわからないが、お互いメールで知り合った情報以外の一体感が作ら れたような気がした。時間はたっぷりある。まずはコミュニケーションだ。そして後は、本を読み、ひたすら飲んで寝る。ケニアへの助走のための休息の時間。若者たちはショッピングモールに消えていった。

安堵と決意(9月15日)
ドバイからの空路も信じられないほど定刻に灼熱のナイロビに着いた。
もっとも懸念だった、ケニヤッタ空港での税関審査。トランクを開けられることを覚悟していたが、案の定運搬物の中身を執拗に聞かれた。えいままよともっとも影響のなさそうな学生のトランクをこちらで指定して開放。安堵と決意荷物の中身にかくれている薬を目ざとく見つけられ説明を求められたが、商売目的ではないこと、医療ボランティアの継続の一環であることを説明していたら、そのほかにはないかと問われて、本当はほとんどのトランクに入っているはずなのに、もうないと強気に言い放ったらそれで放免。今年は人数が多かったぶん、薬が分散されたために幸いだったのかもしれない。
でも、その後税関を18人と同じ数だけのトランクが通り過ぎ、稲田先生を見たときは、私はもうミッションが終わったかのような安堵感に包まれた。
夜の総決起集会はアパートの隣のブールバードホテルのレストランで。改めてお互いの自己紹介をしながら明日からのミッションの確認をした。最後には五十嵐さん、富塚さんの二人の女神も駆けつけてくれて盛り上がり、日本からの長い一日が終わった。

始動(9月16日)
始動いつもの鳥の声で目が覚めた。もう日差しは暑い。今年のケニアはいつもより蒸し暑い気がする。初日はいつもの通り、HIV陽性者のクリニック。稲田先生の話では、イルファーで定期的にケアしている患者は200人を越える勢いだという。ほぼ毎日のように稲田先生と現地スタッフが面談を行っているので、それほど多くもない数だったがそれでも30人強の患者を三つの内科ブースで診察した。内科医が二人一組になり、一人が診察、一人がデータ入力。そして岩手の医学生がそばで見学。今年はすべての診療端末PCがホストコンピュータと結ばれ(イーサーネットを使用)入力が瞬時にホストコンピュータに記録されるように工夫がこらされおりスムーズな入力作業となった。時々断線したがこれがケニア。診察室もきれいに区分けされており、稲田先生と現地スタッフの寝ずの準備に脱帽する。六ヶ月に一度しか受診と検査のできない地元クリニックでは細やかなケアができない。その穴を埋めるのが私たちの存在だと認識し、一ヶ月に一回彼らの服薬状況や健康状態、必要に応じては生化学検査やCD4、ウイルス量検査などを行っているが、これらの地道な活動が現地のクリニックや病院で認知さ始動れ積極的な連携を期待され始めている。釧路での地域医療連携と形は違うが、相通じるものがあるような気がした。何事も誠実さと地道さと継続なのだ。
二年ぶりの参加となった鍼灸ブースも初日から全開。従来はHIV陽性者外来では、ほとんど活動されていなかった鍼灸だったが、今年は患者の求めに応じて、腰痛などの訴えのある患者に積極的に鍼灸を勧めたところ、初日から10人を越える人が受診した。今日来院した患者の3分の1が鍼灸をうけたことになる。どんなに忙しくとも満面の笑顔で対応する松原さんの人柄ゆえだが、人気商売ここにあり。明日からの一般外来でも鍼灸の魅力を精一杯届けてくれるだろう。

プロ集団(9月17日)
一般外来の第一日目。参加者も多いため診察ブースを多くとるためにいつものソシアルホールより広いホール(小学校の体育館みたいな)を借りて準備を始める。プロ集団手際よくブースが完成し、講堂の正面の一段高くなった場所を薬局にしてまずは薬剤の陳列。占部薬剤責任者の発想で効能別に並べた。
三つの成人のブースには釧路組と神戸組そして現地のクリニカルオフィサー(いわゆるレジスタードナース)二人組が配置。小児ブースは名古屋の山本先生と神戸組に別れた。それに二年ぶりの鍼灸ブースとラボ。
準備の関係で診療開始は11時となったが、医師は言うに及ばず、看護師、薬剤師、検査技師、鍼灸師のプロ集団はそれぞれの専門を十二分に生かしきり、日の入りの終了まで、初日としては信じられないほどスムーズにいった。薬局は相変わらずの忙しさだったが、鬼気迫る表情の占部君とケニア在住の看護師やニューヨーク在住の看護師のサポートで数々の処方をこなしていた。検査室では釧路(山田)、東京(河瀬)のベテランナースたちが、驚くほど器用にそして淡々と採血や傷の処置を行い、荒賀検査技師は黙々と検体処理していた。
鍼灸師の松原さんも、多彩な要求に笑顔で対応しているし、感染症学を専門とする神戸の若手医師たちはその専門性を十分に発揮して診療にあたり、私もずいぶ助けられた。
プロ集団 遅い始まりではあったが、終わってみれば282人の患者を診察した。これぞ専門集団の技と納得した。もちろんその隙間を6人の岩手医大の学生さんが有機的にうめてくれている。ありがたい助っ人である。目的がはっきり共有されている時、人はひとつになれる。そんな気がした。
今年も私の通訳は40才の女性、サルマだった。夫のDVに耐え切れず離婚したのだと言う。でもこうやって元気にボランティアとして通訳に来てくれる。ビザが降りればカタールに仕事をしに行くのだと言う。ケニアには仕事がないからと。産油国はこのアフリカでも魅力なのだ。ボランティアどころでないだろうに、そんな人生の背景を悲観することなく話してくれる。
いろんな患者が来る。ヘロインをやめたいと突然言い出した39才の女性。どうしたらやめられるかと真剣に問うのだ。静脈自己注射の痕跡を示しながら語る。幸いHIVは陰性。心からなんとかしてあげたいと言葉では表現するが、落下傘部隊の我々にはいささか手に余る問題であり、稲田先生に相談して地域に根付く薬物中毒のコミュニティーを探してもらうことにする。こうやって外来の初日が終了した。
心地よい疲労感は、地元のビール(タスカー)の泡で洗い流されるに違いない。

ストライキの中で(9月18日)
信じられないことだが、ナイロビ市内の病院医師がストライキを起こしている。待遇改善要求のようだ。それゆえ現地のスタッフから今日は患者が押し寄せると脅かされたが、開けてみれば、いつもと変わらない外来だった。考えてみれば、ストライキの憂き目に会うのは、公的な病院に通院できるお金に余裕のある人たちなのだ。病院とは無縁のスラムの人にとっては、医者のストライキなどどうでもいいことなのであり、ストライキの中で私たちの開いているクリニックに突然患者が押し寄せる訳はないのだ。一日でトータル417人の患者を診察したが、現地スタッフと医療スタッフの連携は今日もスムーズで、それほどストレスを感ぜずに終了した。ブースに張り付く学生に対しては、聴診のしかたから問診のとりかた、血圧の測り方まで、若先生たちのon job traningが進行中で、なんともいえないほのぼのした雰囲気を醸し出している。こんな穏やかさは、いまだかつて経験したことのないことだった。検査採血部門が充実したことで、稲田先生もスーパーバイズ的な動きに徹することが出来るようで、彼の顔もいくぶん穏やかにみえる。今までになかったキャンプの顔を垣間見たと言うより、これから向かうべきキャンプのプロトタイプを見たような気がする。

歯科のないキャンプですごい機器に出会った(9月19日)
今年のキャンプはいつになく静かだ。そうか、歯科がない。いつもニューヨークから来ていた歯科医が今回のキャンプでは都合がつかず来ることが出来なかった。この静けさは抜歯の度に泣き叫ぶ子供が居ないからなのだ。歯科に対する需要は高い。今日も何人もから歯が痛いと訴えられた。歯科医がいないと説明すると、決まってがっかりした顔になる。今の私に出来ることはペインキラー(痛み止)を出すことだけだと申し訳なさそうに言うしかなかった。多くの訴えを聞いて最後にHIVのテストを勧めるのが常なのだが、最近はほとんどの人たちが最低一回は検査を受けている。VCT(自発的な検査)がずいぶん浸透したものだと感心する。この点だけは日本のほうがかなり遅れていると言わざるを得ない。なかでも今年目立ったのは、かなりのHIVの陽性者が一般外来に訪れていること。イルファーのメディカルキャンプがHIVとリンクしていることが周知されていることと、歯科のないキャンプですごい機器に出会った陽性者のスタッフが多くかかわっていること、そしてHIVの偏見がこの地域でも少しずつ薄らいでいることを示す出来事かもしれないと思いを馳せる。HIVはどこにでもある感染症であり、ケニアも日本も区別はないのだ。
それにしもすごい機械が現れた。その名をPimaという。卓上のCD4測定機器。バッテリー駆動でたった20分で測れるすぐれもの。Alereドイツ本社からイルファーに寄贈されたものだ。ケニアのような国でこそ生かされるこの機械、今後の陽性者のフォローアップの強力な助っ人を得た気分だ。得意満面で説明してくれた稲田先生の顔が忘れられない。ほぼ中日となる今日のクリニック。総患者数は463人、鍼灸はなんと51人! 薬剤の在庫に不安を感じ始める時期であると共に、疲労がピークに達するころでもある。自己管理をしっかりしながら明日からの下山に向かう。

ケニアでの協働の夢(9月20日)
午前中、モヨチルドレンセンターの松下照美さんとその現地スタッフ(フランシス)がキャンプを訪れた。後からボビーも駆けつけてきて、今年の5月の釧路以来の再会を喜びあう。
ケニアでの協働の夢ナイロビから車でおよそ一時間のところにティカという町がある。そこでストリートチルドレンや孤児をケアーし続けて18年。その人こそ松下さんであり、モヨチルドレンセンターだ。5月、活動の資金集め支援者獲得を目的に行った日本全国行脚の一貫として釧路でも講演(イルファー釧路主催)し、その時に意気投合した松下さんと法律家のボビー。今日再会の約束が実現した。松下さんと稲田先生、歳もほとんど一緒だが、考え方もかなり近い。不遇な子供のケアーに心血を注ぐ松下さんとHIV陽性者のケアーに残りの人生をかける稲田先生。また新たなの横糸がケニアで繋がった瞬間だった。そしてケニアの法律家のボビーは、モヨチルドレンセンターの理事を務めていると同時にケニア新憲法の草案者の一人でもある。こういう法律に明るい人が我々の活動にも関わってくれるならその恩恵は極めて大きい。なんとドレッドヘアーでファニーフェイスのボビーはプムワニの学校を出ているのだ。この奇遇は運命となるはずだ。
ケニアでの協働の夢午後は毎年恒例のプムワニサバイバルスクールへの文房具やサッカーボールなどの伝達式のためプムワニの街を歩いて学校へ。最近の治安の悪さを警戒して付かず離れずの行軍だったがもちろん何事もなく到着した。子供たちは稲田先生を称える歌で歓迎してくれた。一生懸命勉強して一生懸命遊んで、貧困から脱することができるだけの心と頭と体を磨いてほしい。まさに学校の名前、サバイバルスクールの所以を願う。
いろいろあった一般診療第四日目。
イルファーの将来と子供たちの将来の夢をみた。受診者は410人。

祝2000人突破(9月21日)
一般外来最終日。怒濤のように押し寄せる患者をみて五日目の朝は、さすがに首から肩のこりと全身疲労がピークに達する。開店準備中に全身鍼を打ってもらいつかの間の癒しを体験して、いざ診療ブースへ。だんだん底をつく薬を気にしながら、体力気力を 振り絞って任務をこなす。気が付いたらランチまでに診察患者は60人を越えていた。他のみんなも、医者も看護師も薬剤師も検査技師も学生も現地のボランティアもみんなが最後の力を出し切った結果、祝2000人突破五日間のクリニックで診た患者総数は2004人(大人1260人、小児744人)に達した。平年は1500前後であることを考えるとずいぶんと忙しかったわけだ。薬も咳止めなどの一部を除いてほとんど底をついた。朝にはプムワニ村の一地区であるイスレイ(ソマリア難民が多い地区)で、大量の爆弾と武器がみつかり、アルシャバーブ(イスラム過激派)のテロを警戒するとの連絡がケニア大使館から流れ、まさに私たちのキャンプ地のすぐ隣であったから若干の緊張が走ったが、何もなくそして充実して終了した。平和ボケした日本では考えられないような現実があるのだ。終了後、初参加した面々には、イルファーケニアから感謝の贈り物が渡され、現地ボランティアと友情を確かめ合いながらシティーホールを後にした。

ポレポレは健在だった(9月22日)
最後のHIV陽性者外来。稲田先生自慢のイーサネット接続の電子カルテが朝から稼働してどんどんと陽性者の診察が進むはずだった土曜日。ポレポレは健在だった通信ケーブルの不具合が発生し、機能しない。仕方ないので個別の端末コンピューターににカルテをインストールして開始したの が10時半。さぞ患者を待たせたと恐縮したが、アポイントをとっているはずの患者はポツリポツリと来る始末。午前中に来る約束をしても、彼らには一日という範囲でしかとらえられないのか、平気で午後になってやって来る。五月雨外来はいつ終わるともしれない様相を呈してきた。この数日間あまりにもスムーズにことが運んできたので、アフリカ気質を忘れていたが、今日思い出させたくれた。ポレポレ。なんとなくのんびりしている時間軸。やっぱりアフリカだったと思えば不思議とストレスがわかないのだ。それでも30人を越える陽性者のフォローが出来た。今回のキャンプで二人の現地のクリニカルオフィサーが内科小児科外来をヘルプしてくれたが、二年前にメディカルスクールをでたばかりの若いティモシーがとても目立っていた。今は、病院での研修を終えプライベートクリニックに勤めて生計を立てている(月給が1万8千円?!)ようだが、医療経験が短いわりには、とてもよく知っているし、知ろうとする意識も高い。なんども私たちのところへ来てはいろんなフィールドの質問をしてくるし、しかも鋭い。加えてHIV治療の知識経験も豊富で、コンピューターも自在に使えるとなれば、イルファーのプロジェクトのスタッフとして迎え入れるに十分な素質だと思う。今日HIV診療を一緒にやったが、その可能性は一段と高くなった気がする。ポレポレは健在だった彼も我々のスタッフとして働くことに前向きであったし、後は稲田先生の判断ということになるが、また新しい血が現地に芽生えた気がした。来年またここで会おうと約束してしばしの別れの記念撮影をした。
やっと4時前に午前外来?を終了して、毎年恒例のマサイマーケットでのショッピングゲーム。私以外はみな始めての経験だったが、それなりに買い物を楽しんだようだ。あえて最低価格を自慢する必要はないのだ。相手にも生活があるのだから自分が買ってもいいと思う値段で妥協するのが、またポレポレの文化だと思っている。12回にもなれば自分の欲しいものなどなくなってくるが、イルファー釧路のバザーのためのグッズを探し回った。故にもっとも疲れた一日となった。明日は昼ころ松下さんのモヨチルドレンセンターを表敬訪問する予定。初参加組はサファリを希望したので、早朝未明に出発するようだ。私は、はじめてのんびりした朝を迎えることになるだろう。ついに、終わった。

日曜日そしてティカへ(9月23日)
寝た。まさに泥のように。太陽の光と鳥の声で目覚めたときはすでに7時を回っていた。
静かだった。新参者は朝早くからサファリゲームに行ってしまっている。
稲田先生と私、ベーコンエッグを作りチンご飯とインスタント味噌汁、そして秋刀魚の缶詰で朝食。日本食を懐かしみながら、おおむねスムーズにいった今年のキャンプと、集まったプロ集団に感謝しあった。そして学生たちの存在の意義についても語り合った。プロ集団のニッチを埋めるのみならず、医者になるための実践演習の場として彼らの得るものは大きいだろう。後輩たちへの来年の橋渡しを期待したい。
日曜日そしてティカへティカへは、最近出来たという(ほとんどの大きな土木は中国が牛耳っているようだ)高速道路をたどって東へおよそ1時間。
モヨチルドレンセンターでは、松下照美さんとスタッフそして共同生活をしている子供たちが笑顔で迎えてくれた。
この大人数の訪問にスタッフ全員で手作りの昼食を用意してくれていたのだ。
日曜日そしてティカへ モヨホームの活動は、ストリートチルドレンのリハビリ、貧困の子供たちの学業支援、学資支援、障害者の寮費支援、そして70名の子供たちに対する昼食支援など多岐にわたる。現在6歳から18歳までの20名弱の子供がモヨホームで共同生活をしている。みんな暗い過去を持つ子供たちだが、ホームでの彼らはとても幸せにみえる。松下ママの暖かい心に抱かれているのだ。
スタッフもこのホーム出身の人もいれば、学生もいる。70歳になったら引退して現地で育ったスタッフに任せるつもりだと彼女は言うが、それだけ信頼のおけるスタッフが育っているのだと思った。
釧路の患者さんから託された布製手作りのティッシュケースと釧路協立病院の渡邊さんの日本全国を撮りためた写真を渡すと、子供たちが松下さんを取り囲んでとても興味深く手に持っていた。
食事の後は全員の自己紹介があり、子供たちの太鼓などのパフォーマンスで楽しい時間を共有し、ホームを去るときには全員が外に出て見送ってくれた。
イルファーとモヨホーム。車でたった一時間の距離。
絆はもっと強くなった。

スコールに送られて、祈る(9月24日)
ジョモケニヤッタ空港で搭乗する直前に激しいスコールに見舞われた。ケニア滞在中は一度も降らなかった雨だったがこのタイミングのスコールに、我々は守られていると感じた。
昨夜はミッションが終了した安心感からどっと疲れが出たのか、ケニアで始めて悪寒と共に発熱を経験してしまったが今は復活している。とにかくこの大人数をまとめあげ、誰一人欠けることなくケニアを出国出来たことは、涙が出るほどほっとした。涙がスコールになった。
今ドバイ空港でつかの間の休息。後三時間ほどで関空へ飛ぶ。そしてちょうど今、イルファーのメンバーの一人が日本で大手術を受けている。
祈る。
ケニアからドバイから彼の復活を祈る。

総括(9月26日)
今年のキャンプは、初めてオールジャパンの構成になった。しかも岩手の医学生6人を加えて総勢18人が日本から大移動をすることになり、ケニアの政情不安も聞かれるなかで、いかに安全にいかにまとまりよくケニアに到着して任務を全う出来るか。出発前から悩まされることになる。
総括 まず全員のメールアドレスを把握し、メーリングリスト的に出発前から全員と密な情報交換をした。お互いの自己紹介もそこで展開させたことで、関空に初めて集う時のストレスを少しでもなくすよう努めた。
荷物の分担も、仕事のスケジュールもメールのなかで行った。
これがキャンプのスムーズな進行に繋がったと思う。
また、現地での稲田先生の綿密な準備には敬服した。特に、診療ブースの組み立て、現地ボランティアの配置などは過去の経験を生かした今できる最高のものだった。
今までのキャンプのストレスのひとつは、やるべきことはわかっているのに、現地の準備不足からむだな待ち時間がいたるところに生じていたことだった。今年はその無駄待ちがほとんどなかったことが、専門集団の力量を最大限引き出すことになったのだと思う。
この専門集団の存在も大きかった。神戸大学からの感染症専門医は、小児科まで含めて今までなかった新鮮な知識を与えてくれたし、感染症の多い現地の人たちへの恩恵は計り知れない。
総括複数の看護師の存在も大きかった。採血、傷の処置などに最大限のスキルを発揮した。
検査技師は黙々と血液検査に従事し、稲田先生の負担を軽減してくれた。
薬局も占部氏を中心に実に効率よく処方出しをこなしてくれた。
二年ぶりの鍼灸ブースは連日50人を笑顔でこなした。
また特に若手の医師は熱心に学生の実地臨床実習に関わってくれた。
このように、各人が自分のやるべきことを理解しそれを効率よく全うできたことが、キャンプの成功という言葉で表現されたのだと思う。
稲田先生もスーパバイズ的な役割に徹することが出来たと言うのも頷ける。
NPO法人イルファーの主催する初めてのキャンプは、山下理事長を始め日本のスタッフの準備も大変だったと推察するが、公的に認められた団体としてその役割は大きい。もちろん稲田先生の個人的魅力のウエートの大きいプログラムではあるが、活動がより公的になることで、岩手医大の学生の授業の一環として、あるいは神戸大学の後期研修のプログラムとして取り入れられ、実際に派遣が行われたことは、今後のケニアキャンプのひとつの発展型として期待が高まるところである。
今年は一般外来で2000人を越える患者を受け入れたが、日本からの参加医師が多かったことに加えて、現地のクリニカルオフィサー二人の参加も大きかった。このように現地のクリニックと連携することは将来の継続性を担保することになるし、患者への利益が大きいだろう。
今後は現地の歯科医との連携も視野に入れることで、継続的な歯科治療が可能になるのではないだろうか。
今回参加した若いクリニカルオフィサーのティモシーは将来のイルファーのスタッフとしての期待が大きい。現地医療スタッフが登録されることで、ケニアでの公的医療機関としての活動がより明確になるし、現地での継続的なHIV陽性者ケアーのレベルが上がる可能性がある。是非稲田先生の英断を待ちたい。
今回のHIV検査の陽性者は200人程度の受検者の約4%と聞いている。最近の傾向では、すでに検査を受けている人がほとんどで、HIVの掘り起こしとしてのキャンプの意義は低下してきている。今後はさらにHIV陽性者のケアーに重点をおくべきとは思うが、陽性者陰性者の区別なく一般医療を求める声が現地には高いのも事実だ。実際今回の外来では、HIV陽性者がいつもより多く受診している印象があった。これらの現地の要求に対応しながら、増える陽性者のケアーをどういう比率でやっていくか。今後の課題と思われる。
総括 陽性者のフォローアップは土日に集中的に行われた。日本でもあまりみられないような詳細な病歴がエクセルのカルテに記載され、稲田先生の努力に敬服するが、現地にいない我々がどれほどこのケアーに関われるのか。実はそれを埋めるのがティモシーのようなクリニカルオフィサーの存在だろう。
このように考えると、NPOイルファーのケニアプロジェクトとしては、現地での要求の強い一般診療を、学生や研修医の国際貢献としての実習の場として提供、利用しながら継続することが、一つの新しい方向性だと考える。
産婦人科医や皮膚科医が参加する場合には、そのための専門外来を設けるなどの、その年々の特徴を予め現地にアナウンスするのも面白い。そうしてHIV陽性者外来は現地スタッフが主体になるべきところに来ているのではないかと思う。言い方を変えると、稲田先生を始めとした現地スタッフの努力がそれを可能にしてきたということだ。
現地での邦人との横の連携も忘れてはいけない。
今年は松下照美さんのモヨチルドレンセンターを訪問した。松下さんは不幸な子供たちを、稲田先生は無知ゆえに不幸になりそうなHIV陽性者をターゲットにして現地に根をはって活動している。共通の視点があるわけだ。このような連携は活動の継続のための大きな絆になるだろう。また日本大使館との深い繋がりや、モヨチルドレンセンター理事の法律家ボビーとの連携は、公的団体になるための大きな一歩になるに違いない。
そして今年も健在であった二人の女神(五十嵐さんと冨塚さん)はさらに私たちの活動を陰日向にサポートしてくれており、頼りになるという言葉では言い尽くせない気がする。彼女らが居ないと立ちゆかないと言ってもいい。このような横の繋がりこそ、遠いケニアで進むプロジェクトを成功させる鍵だといつも思っている。
今年は大所帯であったがため、自炊はほとんど不可能だった。しかし毎朝、毎晩外へ食べに出ることは、楽しくもあるが、疲れが蓄積するし金銭的負担も大きい。将来は現地スタッフを短期的に雇いいれて、アパートで食を提供してもらうとか、現地の食堂と契約して継続的なしかも変化のある食の提供を依頼するほうが、結果的に安くなるのではないかと考える。
とにかくキャンプは新しい可能性を秘めながら、無事に終了した。
関わってくれたすべてのみなさまに感謝。

これは、現地の人たちにもっとも有効な医療の提供は何か、そして我々がどうしたらもっともストレスなくスムーズに医療を展開出来るかを考えた結果であり、そしてキャンプの総括である。