ケニアレポート(2011)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

フリーメディカルキャンプ'11レポート / 宮城島拓人(内科医 イルファー釧路代表)

ついに出発の日(9月16日)
イチローが11年連続200本安打達成に苦労している間に、11回目のケニアに旅発つ日が来た。
3.11の大震災の後、ケニアプロジェクトの意味を問い直した。足元の支援こそ今大切ではないのか。ケニアに行っている場合か。
しかし、継続の事実は重かった。意味があるから継続する。継続するから意味が生まれる。今この有事だからこそ淡々と続けることを選択した。
夏の再来を思わせるような日差しの釧路空港には、過去に二度もケニアの地を踏んだ保健師の清香(さやか)が、生まれたばかりの子供を連れて駆けつけてくれていた。
今回釧路から出発するのは初参加の労災病院の内科医師村中先生と私の二人だけ。少し淋しい旅立ちではあったが、今回参加出来なかった鍼灸師たちの思いを胸に機上の人となる。
新千歳空港で圭人(よしひと)と合流。相変わらずバックパック一つで飄々と現れた。
これからおよそ二週間、息子と寝食を共にすることになる。もしかしたら最初で最後の長い時間の共有なのかもしれないとあまり良い父親とは言えなかった過去を振り返って思った。
関空で名古屋組と顔を合わす。懐かしい山本先生の顔があった。二年ぶりのケニアキャンプ参加。彼も息子を連れてきている。二組の「子連れ狼」は、なんとなくテレながらお互いの息子を紹介し合う。
名古屋からはもう一人長谷川先生が参加。山本先生の勤務する病院の同僚で外科医だという。初めての外科医の参加である。まずは景気づけの乾杯!

田村はまだか。

待つこと二時間、午後10時過ぎに汗を垂らしながら30kgきっかりの重いトランクを転がしてやってきた。広島からよくぞ来た。一日の勤務を完遂し、ぎりぎりで新幹線に飛び乗って来たらしい。
これでみなが揃った。
チェックインは田村さんが最後だったが極めてスムーズ。一人40kgまでの荷物を認めてくれた。
さあ、いよいよ乗り込む。
エミレーツよ、無事に我々をナイロビに送り届けてくれたまえ。

ドバイの空白(9月17日)
毎年のことだが、ここドバイ空港でトランジットの待ち時間がただひたすら長い。
一時間も早くドバイに着いたからなおさら。およそ6時間をどうするか。免税店のショーウインドウを眺めてもなにも感じない。初めての仲間もいたのでお付き合いでぶらつくもすぐに飽きてしまう。ドバイの空白宝石や香水に時計に高級ブランド。あまり縁のないものばかりが並ぶ。結局人通りの少なそうなパブで一杯。まったりと時間を過ごす。
今年のケニアを考えていた。稲田先生が昨年春、ニューヨークからケニアに移り住んでいよいよ現地の継続支援が現実化した。それはすごいことだった。しかし、NYが手薄になった。NY当局からNGOの資金に対する使途の追求や課税などの問題が立ち上がった。結局、稲田代表のいないNYにイルファー本部を置くことは得策ではなく支援者の多い日本に置くことに決定。現在NPO法人化を申請中である。したがって、今年のケニアは活動拠点が日本に移っての初めてのキャンプ。今後の資金調達を考えながらの厳しいものになるに違いない。
まあ、後から考えよう。いまはビールで乾杯だ。
釧路広島組はドバイの時間を優雅?に過ごす。

ハーパーはまだか(9月18日)
ナイロビには定刻に着いた。入国審査で写真をとって警告没収となった田村さん以外に問題はなく、スムーズに税関も通り過ぎた。最近のケニアの入国審査はあまり厳しくない。
いつものように稲田先生が迎えに来てくれている。ハーパーはまだかその小さな姿を見るだけでなんだかほっとする。ただいつもの車がない。そういえば故障続きで移動が大変だと言っていた。タクシーに分乗してアパートに向かったが、これからの活動に足がないのは結構痛手だ。
夜に米国組が合流するという。エマさんとハーパーおよび彼のサポーター二人。久しぶりの再会にわくわくして待つこと数時間。
田村はまだか、どころではない。結局彼らは来なかった。簡単に予定変更するのはアメリカ流の自己表現としても、日本人にはなかなか理解できない。エマは明日の朝到着するらしいが、ハーパーは全くのなしのつぶて。今カナダにいるがどのくらいでケニアに着くだろうと、暢気な電話が夜中にあった。まあ仕方ない。日本組だけで乾杯(また?)をして早めに床についた。

18日は毎年恒例のHIV陽性者フォローアップ。
イルファーケニアのオフィスを利用して、二つのブースを作って、内科のメディカルチェックを開始した。ハーパーはまだか宮城島村中組と山本長谷川組。一人がクライアントと面談しながら全身のチェックをし、その結果をもう一人がコンピューターに打ち込む。一人あたり20分以上かけてゆっくりとした時間のなかで診察が進む。環境が違うとは言え釧路の3分診療を少し反省。多くのクライアントは元気だ。きっちりと薬を飲んでいるし、CD4も比較的安定している。服用している薬もだんだん日本と変わりなくなってきた。ツルバダやエファビレンツなども普通に出回っている。もっとも日本にはない三剤の合剤がひろく出回っているが、これもユニバーサルアクセスのために一つの方策だろう。
エマが昼前に突然笑顔で現れて懐かしい再会を果たす。早速新しいブースで子供の陽性者フォローに就いた。最終的に30人弱の陽性者と面談した。
しかし今日もハーパーは現れない。
ハーパーはまだか。

The first day (9月19日)
The first day電気が来ない。ハーパーも来ない。車もない。何もない。
いつもの初日だ。
日本組全員でまず、薬局の立ち上げをする。地元のボランティアを待っていられないので、自ら昨日使ったオフィスへ乗り込み、薬剤ボックスを運んで仕分けをした。
毎年薬局を担当するボランティアの女性が、棚に置かれた薬を一つ一つチェックを始めた。期限切れがないかを念入りに調べているのだ。無償で薬をもらう彼らだが、期限切れには極めて敏感なのは長いつきあいで知っている。まあ無償だろうが有償だろうが、クライアントには誠意をもって処方するのは当然としても、心のなかでは、自分の家ではいつも期限切れの薬を使っているのにと思ってしまう。
準備の途中で電気が来ていないことが判明。まあこれも良くあることだが、そのためにHIV検査などが出来ず、外来初日はHIV検査を勧めることが出来なかった。
The first dayこんな時に限って、いかにもエイズ消耗性疾患を思わせるような患者が目の前に現れる。
スタートは遅かったが、終わってみれば全員で250人程度の患者をみた。もちろん歯科外来は中止。それは明日に期待ということで。処方も約200人分が発生し、田村さんと二人のジュニアが初心者ながら奮闘していた。明日はもっと患者が殺到するだろうが、この様子なら薬局もなんとかなりそうな気がした。
今回は鍼灸はないのかと、ずいぶんと聞かれたが、やはり鍼は期待されているのだなと感じた。来年こそは必ず連れてきますと、思わず約束してしまった。何人にも。

相変わらずの陽性率(9月20日)
9月のケニアは雨期から乾期への移ろいの時。相変わらずの陽性率南半球だからこれから夏に向かう。高地(標高1500m以上)にあるおかげで赤道直下とは思えないほど朝はまだひんやりとしている。今頃の釧路の朝とそう変わらないだろう。しかし太陽が昇り日が降り注ぐようになると、さすがにじりじりとした日差しにめまいを感じる。もっとも、ほとんどはクリニックを開いているソシアルホールにいるので(外に出るのは公衆トイレに行くときだけ)日焼けすることはない。
今日は一般外来の二日目。朝9時から順調にスタートした。隣でやっている村中先生も早くもこつを覚えてさくさくと外来をこなしている。時には通訳と会話を楽しむことも覚えたようだ。
薬局は田村さんと圭人が忙しく立ち回っているが、現地のボランティア学生にずいぶん助けられているようだ。工学部系の学生が薬剤を調合している姿は日本では決して観ることは出来ないだろうそんなことにおかまいなく淡々とこなしていた。
ラボでは山本ジュニアが稲田先生の指導の元、HIV検査を行っている。相変わらずの陽性率稲田先生は受検者の採血に追われているので、彼の存在はラボの中では貴重だ。時々山本先生が心配そうにブースを覗いている。
二つの内科ブースと二つの小児科(今日は現地の小児科担当のクリニシャン;アメリカではいわゆるナースプラクティショナーに近い身分の医療者が診療を手伝ってくれた)は相変わらずの怒濤の外来だったが、午後5時前には比較的余裕をもって診療を終えた。一日で310人の外来。そのうち41人がHIV検査を受けて、5人が陽性だった。陽性率12.2%。相変わらずの高さだ。しかしそれだけではない。陽性の5人のうち4人は昨年以前にも我々のクリニックで検査を受けていて陰性であったことが判明したのだ。
こうやって感染者が作られていく。
むなしい現実をみた。

フル稼働の日(9月21日)
ついに歯科がオープンした。フル稼働の日飛行機トラブル?で56時間のフライトを余儀なくされ二日遅れで現れた歯科軍団。ハーパーは同僚の美人歯科医と美人アシスタントを連れてきた。荷物が届かないなどのアクシデントもあったが、なんとか今日から開始となる。待っていた患者がいきなり殺到して大混乱になるも現地スタッフのオーガナイズで軌道にのる。元気一杯の歯科軍団に比べて疲れが蓄積されつつある日本軍団ではあったが、慣れてきた外来と薬局業務に邁進する。
しかし、、、
こんどは地区停電でラボが朝から機能しない。郷にいれば郷に従え。出来ることをするしかない。いつものことだ。
薄っぺらなビーチサンダルを履いて割れたガラスを踏んだ女性。歩くと痛いと訪れた。フル稼働の日踵にガラスの破片が残っているのだろう。もしかしたら、と思って外科医の長谷川先生に依頼してみた。He said I'll try!。メスで小切開を加えて解決してくれた。外科医の存在ここにあり。頼もしかった。
窓から射す日の光のなかでフル稼働。当たり前だが日没前に終了。なにせ電気がないのだから。
しかし終わってみると400人以上の患者が訪れていた。
Haper, How many teeth did you remove today?(ハーパー、今日何本歯を抜いた?)
70!
誇らしげに彼はそう答えた。
アパートでは村中、田村両シェフによる、肉ジャガ、お好み焼きの饗宴で夜は更けていった。

ただ黙々と(9月22日)
ただ黙々と朝からの熱い日差しの中でソシアルホールの外にはすでの長蛇の列が出来ている。電気も来ている。我々はすでに臨戦態勢にあるのだが、受付が滞っているため、やや拍子抜け。外来のイメージは最初は五月雨(さみだれ)、しかる後に豪雨とでもいおうか。9時過ぎにぽつりぽつりと始まった外来だったが、10時を過ぎるころには、抜歯で泣きわめく子供や小児科の待合でざわめく子供、そして我先にと待合席に突き進む大人の喧噪で騒然となる。目の前に患者の言葉が聞き取れない。まさに豪雨。
三時間待ちの3分診療。ケニアも釧路も同じ。ただ辛抱強く待つ彼らの顔は真剣だ。
子宮頚癌を煩いケニアッタ病院で放射線療法を受けたという患者が訪れた。ただ黙々とお金がなくなってその後の治療を中断。両足がリンパ浮腫でぱんぱんに腫れている。そして下腹部の強い痛み。どう見ても癌の骨盤内再発に違いないが、お金がなくて病院にも行けず途方にくれて来たのだ。彼女を前になにも出来ない情けなさ。寄り添うことも出来なければ、もちろん治療の手は下せない。聞くかどうかわからない痛み止めしか出すことができないと申し訳なく話すと、それで十分ですと笑って帰って行った。厳しい時間だった。
ただ黙々とラボでもデータ管理が着々と進んでいる。ただし採血業務が主体。いつ電源が落ちるかも知れない状況は変わらず、検査そのものはアパートに持ち込んで行うことになる。
結局外来患者は昨日と同様400人を超えていた。処方箋もかなりの数に達し、無くなる薬がぼちぼちと出始める。
そんななか、湿布の人気は絶大だ。重い荷物を担いできた甲斐ががあるというもの。今年は鍼灸がないので、さらに需要が高まる。ただし来年は、ハップ剤からテープ剤に替えることで、もっと軽量で大量に運べるだろうと考えた。
夜は、みんなでエチオピア料理を食べに行く。少し癒された。

What makes you come here? (9月23日)
昨夜、エチオピア料理の店からの帰り道で、ケニアキャンプ7回目の小児科のエマに、なぜ毎年ここに来るのかと聞いてみた。それは自分に対する質問でもあった。
What makes you come here?Because I love here.
あっさり言ってのけられた。
あまりにも簡単な返事にびっくりした。が、しかしすんなりと自分の心に落ちた。
貧困と混沌、無秩序と収賄、ダストと不衛生と感染、そしてバイオレンス。
抑圧されている彼らを、HIV感染で苦しんでいる彼らを助けたいともっともらしい大義名分を掲げても、義務感、使命感を意識しても、毎年通う理由にはなにかむなしい。しかしエマの一言で救われた。
そうなのだ、好きなんだ、ここが、この人たちが。そうじゃないと10年も来ていない。
今日は、最後の一般外来の日。遅れてきた歯科も最後とばかりに不可能なくらいの患者をレジストしている。我々も来る者は拒まず精神で淡々とこなす。薬局は長い列、カウンセリングも長い列。患者も今日が最後とわかっているのだろう、なんとか今日中に診てもらいたいと殺到する。

What makes you come here?午前診療を早めに切り上げて、毎年文房具などを寄付しているプムワニサバイバルスクールへ。今年はノートやボールペンなどに加えて、大野先生から託されたサッカーボールもある。What makes you come here?このスラムの地からいつかワールドカップに出られるよう選手が出ることを夢見た。

午後にケニア大使館の大使と公使が視察に来た。いろいろ質問を頂いたが、忙しくて失礼をしたかもしれない。しかし公的な施設から認知される活動だとすればそれは大きい。資金も必要だが、国が認めてくれることの意義はそれ以上だろう。

6時半、一番長い一日が終了した。
最後に一週間我々のブースで通訳として活躍してくれたサルマに聞きたいことがあった。
彼女はサモサ(三角形をした揚げ餃子みたいなもの)を作る仕事をしているらしいが、なぜこのキャンプにボランティアで参加しているのか。別れ際に聞いてみた。
だって、楽しいから。
エマと同じ、明快な回答だった。
好きだから、楽しいから。
そうやって肩肘張らずに言える自分を今、想像している。
とにかく喧噪は終わった。
明日はゆったりとした陽性者外来に戻る。

感謝をこめて(9月24日)
毎年の最後を飾るのは、HIV陽性者外来。アメリカの歯科軍団がサファリに出掛けている間に内科と小児科のブースで20人ほどの患者を診察した。
昨日までの喧噪と3分診療とは打って変わって、CD4やその他の検査データを見ながらのゆったりとしたメディカルチェック。ケニアでは3TC/d4T/NVPの三剤から3TC/TDF/EFVの合剤(一錠)に主流が移りつつある。まだ数年の開きがあるが、だんだんと先進国並みの薬剤が導入されている。
感謝をこめて今回のキャンプで小児科として活躍してくれたクリニシャンのジェラルドに、彼の勤めるムバガディホスピタルで一日何人くらいのHIV陽性者を診ているのかを聞いてみた。毎日6人のクリニシャンで一人あたり約20人。一週間で600人程度になるという。日本とは桁が違う。しかもその数はどんどん増加し、CD4検査も半年に一回が限界らしい。医者が少ない故にクリニシャン(処方の出来る看護師・医療者いわゆるナースプロクティショナー)の役目が重要なケニアだがそれにしても彼らにHIV陽性者を診る負担がどんどんと増えているのは事実であり、服薬管理も不十分になりがちである。我々のメディカルチェックの意義を再認識することになった。
今はクリニシャンだがいつかビッグな医者になりたい。伏し目がちに話す彼に大きな意志を感じた。今の日本でこれほどシンプルに夢を語れる若者はどれだけいるだろうか。
きっとなれるよ。無責任かもしれないがそう答えたくなるようなジェラルドの目だった。
稲田先生の指導のたまものか、イルファーの現地スタッフのアリとワンボゴがそれぞれ担当患者を適切に把握して、より継続的なケアが実現出来はじめていることはとても喜ばしいことだ。この繋がりがどんどん大きくなることがイルファーの活動の担保になると意識した。

感謝をこめて午後二時に外来を切り上げて昼抜きのまま、ナイロビの中央部にあるマサイマーケットに向かう。恒例の土産物の物色だ。イルファー釧路のチャリティに出品する物品をまとめ買いするのが私のミッションだが、私の感性では需要の意向にマッチ出来ないらしいことはうす薄と気づいていたので、今回はイルファー釧路のメンバー(特に女性)に何がふさわしいか(何が売れるか)を聞いてきた。コーヒー、紅茶はもとより、カンガ(ケニアの民族衣装に欠かせない派手な布)、感謝をこめてマサイブランケット(赤が主体の実用性のある毛布)、マサイビーズのコースター、ライムストーンの小物などなど。言われるがままに仕入れ?をした。昔はとにかく値段を下げることに楽しみを感じて交渉に集中していたが、あまり安く買いたたくことは彼らの生活の存在を考えるだんだん出来なくなってきた。まあそこそこで妥協。自分が買いたい値段でおりあいをつけることが両者の利益共有になるのだと思っている。そう考えると実に速やかに買い物が終了することがわかった。

とにかく終わった。夜はHIV陽性者クリニックのヘルプに駆けつけてくれたナイロビ在住の五十嵐さん富塚さん、そして観光から帰ってきた歯科部隊も参加してのホームパーティー。初参加の面々には稲田先生から立派な感謝状(楯)が贈られた。
そして村中、田村による釜ゆでうどんが場を盛り上げる。
まさに合宿の打ち上げだ。

二人の女神(9月25日)
ケニア初回組は朝早くからナクル湖のサファリツアーに出掛けたので、朝の一時は一人でのんびり過ごした。鳥のさえずりが聞える静かな日曜日の朝は一杯のコーヒーで十分だった。
二人の女神午前中、稲田先生の家を訪問した。街の中心と郊外の高級住宅地のちょうど中間程にあるアパートは、建付けは古いが使い勝手の良さそうな感じがした。しかし引っ越して間もなくまだ十分な家具はそろっていない。ここで自炊しながら頑張っている先生を思うと涙がでる。自分のクオリティーオブライフ(生活の質)を削ってまでしてやらなくてはいけないこと。それが今のミッションなのか。資金的問題をなんとか解決して継続を担保させたいと切に思う。
午後は、東京本部でのバザーの品物を買い付けに、ふたたびマサイマーケットに行った。富塚さんが同伴してくれただけでなく、値引き交渉まで中心的に参加してくれて本当に助かる。ただこれからたくさんの掘り出し物をどうやって運ぶか、今から思案中。
富塚さんといい、五十嵐さんといい稲田先生をケニアでサポートする二人の女性は輝いている。二人の女神富塚さんはケニア紅茶のフェアトレードを仕事とする会社に勤めているし、五十嵐さんは日本赤十字から派遣され、ケニアの奥地で衛生環境の整備に忙しい。それなのに、ことあるごとに稲田先生を多方面からサポートしてくれているのだ。彼らの存在はケニアの稲田先生にとってどれほど大切か計り知れない。彼のモチベーションはこの二人によって維持されてきたと言っても過言ではないかもしれない。ありがとう。そしてこれからもよろしく。
さあ、これですべてが終了した。
明日からの日本への移動を考えると、まだまだ安穏とはしていられないが、今日の休息は心と体のリセットには十分すぎるくらいだった。

心の荷造り(9月26日)
思いの外涼しい朝を迎えた。合宿生活を送る中でありがちな風邪の蔓延を経験したが、熱もなく昨日の休息のおかげで回復傾向にある。喉の痛みは誰しも経験することで、風邪だけの症状ではなくこの地区独特のダストと乾燥、そして絶えずくゆらせている蚊取り線香の影響もあるだろうと勝手に分析している。
荷造りをしながら、今年のキャンプに思いをはせる。

心の荷造り歯科医が来ないというハプニング、電気がこないというよくある状況を勘案しても、昨年と同じくらいのパフォーマンスは達成出来ただろう。昨年と違うことは、マネージメント本部が、NYから日本に移ったこと。それゆえ、山下さん始め日本のサポーターの熱い視線を感じて任務に励んだのは事実だった。この活動が一層彼らに認知されることを強く望んでいる。
日本と直接の連携を持つことは機能性資金性をもってしてもメリットはあると考える。今回はNYの残務資金を主体とした運営だったが、次回からは日本のNPO法人(近々認可される予定)が資金面、ロジスティックな面、そして人材派遣を網羅することになる。新しい船出だが、それゆえ資金面の確保は最大の課題だ。どんなに崇高な理想を持っても、資金なしには、空想で終わる。
では崇高な理想とは何か。今の一般診療主体のキャンプ、HIV患者のメディカルチェックを継続することが目標なのか。稲田先生は、近い将来、移動ラボ(車に機器を搭載)でHIV検査のフリーアクセスの出来ない地域にこちらから赴いて検査やケアを行うことも考えているようだ。しかし本当の理想(目的)は、プムワニ地域のあるいはその周辺の自立支援に他ならない。今アリやワンボゴたちが、稲田先生のマンツーマン指導のなかで育っている。そしてジェラルドのような志の高い医療従事者も少しずつ関わり始めている。
彼らが自立し自分たちでHIV陽性者たちのケアをし、今だ根強いディスクリミネーション(偏見)を払拭していくことへの道筋を付けることが我々のキャンプの究極の理想(目的)なのではないだろうか。今のキャンプはそのための手段に過ぎない。いまプラクティシャンであるジェラードをイルファーが支援して医師に育て上げていくことも自立支援の手段としてはすばらしいじゃないか。
今後、NPO法人化したら理事会で活動のビジョンや細かな年間計画を語る時期が来るだろう。実際の活動メンバーとサポーターたちが透明性の中で同じ目標を共有する。それがまたこの活動の大きな推進力になるだろうと期待している。
人的派遣については、今年参加の総合病院南生協病院そして釧路労災病院が病院を揚げて支援をしてくれているのはありがたい。今後は本当に活動の主旨を理解する日本人を中心としたクルーでの継続を期待する。
そして横の繋がり。ケニアでは独自に医療支援や子供達の支援を行っている日本人団体が比較的多いわけで、彼らとの連携をさらに模索することがこのキャンプの意義を大きくするだろうと思っている。
新制イルファーは動き出したばかり。だからこそ今こそ夢多くして、未来への青写真を掲げていきたいと切に思う。

さあ心の荷造りは終わった。
これから土産物の山を片付けて、ブランチをして、いよいよケニア空港に向かう。

種を蒔く(9月27日)
今、飛行機は韓国上空を飛んでいる。ドバイ関空の長いフライトもやっと終わりに近づいてきた。もうすぐ日本だ。しかしそれからがまだ続く。関空から新千歳空港へ国内線に乗り継ぎ、後泊。翌朝朝の釧路便でやっと自分の棲家にたどり着く。往復8回も飛行機を乗り継いでのケニア通い。いくらケニアキャンプが自分のライフワークだとしても、この移動にはやや辟易する。これも好きでやっているから、と自分を納得させることが出来るだろうか。
でも、この移動中いろんなことを考える。もちろんキャンプのこと、その未来へのかかわりのこと、今の自分の仕事のこと、地域医療のこと、家族のこと、今後の人生のこと。結論は出ないが、一人でゆっくり妄想し、ときにクールに分析する時間として、この移動は貴重なのかもしれない。
種を蒔くドバイの長い待ち時間に、圭人とふたりでとあるビールバーに入った。空港ビルの端にあり比較的人通りが少なくしかも禁煙空間で、ソファーがゆったりと置かれているまさにコージーコーナー。
予想もしなかったことだが、彼が饒舌に今回のキャンプのことを話し始めた。英語のコミュニケーションが少しだけど出来た自信や、ヒヤリングの課題を述べながら、とにかく通じたことの喜びを語った。そして慣れない薬局での仕事。つらかったがこれがきっと仕事というものなんだねと。仕事がすこしわかった。同じ目的をもってそれぞれが役割分担をして達成していくものが仕事なんだ。それってまさに体育会系だよね。みんな同じ方を向いているし魅力的にみえる。なぜ企業が体育会系をとりたがるかわかるよ。企業説明会やインターシップでは決して味わえないような生の仕事を体験できた。エイズのことも俺たちあんまり良くわかってなかった。きっとそんな人が一杯居る。教育だね。やっぱり日本でも教育。それにしても稲田先生や他の人は熱いよ。さらに一緒に薬局で働いていたボランティアの現地の人、一人一人との交流や出来事などをことこまかく時に面白おかしく話していた。
などなど、、、
私はもっぱら相づちをうつ側にいた。なにか口を挟むと教師の説教や誘導になりそうな気がしたから。
おやじに対してはやや無口と思っていた息子がこんな感じ方をして、こんな楽しそうに話してくれる。これもキャンプに潜むマジックなのだろうか。連れてきて良かった。心からそう思った瞬間だった。
これからは、後を継ぐ若い力の集結なくして、このキャンプは息長くは継続できない。こうやって感性の強い若い人たちにキャンプを経験してもらい、今後の継続への足がかりになればうれしいことだ。
気の長い話だが、種は蒔かないと実は結ばない。
もうすぐ、日本に着く。

総括に代えて(9月28日)
朝は遅れることなく、空港のチェックインコーナーへ。
しかし釧路が霧の悪天候のため、天候調査中とのこと。最後の最後にこれかよ。結局女満別への代替着陸を覚悟して搭乗。
なんと釧路上空は秋晴れじゃないか!定刻より早く釧路に無事着陸。
やれやれ、やっと終わった。

今年のキャンプは、二年ぶりの山本先生を中心に名古屋組の参加があり心強かった。
しかし一度も欠けたことのなかった鍼灸師の参加がなく、歯科の到着も遅れたことで、バラエティーのある診療をスタート出来なかったのが心に残る。一般外来初日は停電でラボも動かなかったし、そういう意味では開き直って、成人外来と小児外来のみに邁進した。
自分たちの都合で遅れたハーパー達歯科軍団ではあったが、水木金と三日間歯を抜きに抜いてつじつま合わせた後は土曜日からあっさりサファリ観光へ。これも人種の違いなのだろうか。日本人ならちょっとあり得ないセルフィッシュな傾向に稲田先生も心中穏やかじゃなかっただろう。しかし外人がだれもがそうじゃない。エマさん(NYに住んでいるがペルー人)は我々のキャンプの意義をしっかり理解して小児科医として立派なボランティアを展開している。
そう、ここが好きだから。
ハーパーはここを好きじゃなかっただけだ。

結局一般外来は5日間でのべ1900人弱の診察を行い、HIV検査を施行した137人のうち10人が陽性(7.3%)だった。この数字の意味については稲田先生から詳細な考察あるだろうが、予想以上にVCT(自発的にカウンセリングを受けてHIV検査を受ける)をしている住民が増えていることを物語っている。実際帰る機内で読んだケニアの新聞には、VCTは全国民の60%以上に達したと報道されていた。
しかし問題はそうやって自分のステイタスが陰性だとわかっている人が次々と感染してく現実だ。毎年定期健診のようにVCTを行っている人も多いが、大切なのは健診(VCT)ではなくて、いかに予防するかなのだが、いたるところでVCTが行われているゆえに、きっちりとしたカウンセリングや予防啓発が行われていない事実を垣間見る。
日本でも、毎年健診をしてコレステロールが高いと指摘されても何もせず、毎年健診のみを受ける人を見受けるが、同じレベルだ。いやそれよりもっと深刻かもしれない。なぜならHIVの予防は本人だけの自覚の問題ではなく必ず相手がいるからだ。
今年もファミリープラニング(いわゆる避妊薬の注射)を受けて婦人科的副作用や全身的副作用に悩まされている婦人が何人も訪れた。もう子供はいらないが、夫が強要してくるからと言う。コンドームを使うようになぜしないと説いても、アフリカの男は使わないから仕方ないと。アフリカでは男が強い。性的ドメスティック・バイオレンスは日常的だと言う。そんな状況なのだ。
VCTを行って陽性者はもちろんケアの対象になるが、陰性者には、陰性であり続けるためには多くのハードルがこの世界にはあるのだ。我々の非力さを感じるが、これこそ国の根本的な介入が必要な領域なのだと思う。しかし少なくとも我々が拾い上げた陰性者には、我々の責任をもって息の長いフォローアップと啓発が必要だ。陽性者と陰性者を隔てしないフォローアップこそ私たちの役目だと、今回のキャンプで再認識した。

陽性者フォローアップは初日と終日の二回行ったが、それぞれ20人程度のケアだった。このキャンプ前から稲田先生がアリ、ワンボゴとともに把握している陽性者のケア面談を行っていてくれたから(80人以上も面談を終了していたらしい)だが、そう考えると外から年に二回しか来ない我々が診察するメリットが受検者にあるだろうかとの思いが走る。
いや、そうならなくてはいけないのだと思う。我々の必要ない日が来ること。
総括に代えて稲田先生の強力な指導のもと、アリもワンボゴもカウンセラーとして順調に育っている(稲田先生はまだまだだと言うが)。そして今回初参加のクリニシャン、ジェラルド。彼はすでに小児科や成人外来のノウハウを持っている。ムバガディホスピタルで研修ながらHIV患者のケアをしている。彼のようなクリニシャンをどんどん養成し、時にはイルファーで医者に育て上げるようなプロジェクトもあってもいい。そうやって、地域での自立支援をサポートすること。これが究極の我々の目的なのだと思う。
それまでには息の長い時間が必要だろうし、今の形態のキャンプは続ける必要があろうが、キャンプはその自立支援の手段として今後長期的展望をたてる必要があると考える。
なぜそう考えるのか?
総括に代えて会うごとに痩せていくように見える稲田先生。じつはそれが心配なのだ。彼が倒れたらいったい誰が彼の後を継ぐ?ケニアでは二人の女神たちや在ケニア日本人実業家たちがサポートしてくれており、それはとてもありがたいと思う。しかしもっと根本的なところでのサポートを強化することが求められている。
それが、近々日本に誕生するNPO法人イルファーなのだと思う。
稲田先生が一人で始めたこのミッション。いろんなことがあった。名誉も得たが誹謗中傷もあった。しかし着実に10年以上、一つも休まずに定点支援してきたのは大変な実績だと思う。
今、新制NPO法人イルファーの元で、我々はもう一度目標を明らかにし、手段としてのキャンプ運営を継続するための意思統一と支援の強化を図るべきだと思う。

最後に、このキャンプを支援してくれているみなさん、草野院長はじめ釧路労災病院のみなさま、ブログで応援してくれているみなさんに感謝します。