ケニアレポート(2007)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

プムワニ奮闘記 / 清水尚也(鍼灸師)

9月13日(木)
釧路空港にてイルファー釧路メンバー4人が合流。
空港のレストランにて食事をしてから飛行機に乗り込む。
名古屋セントレア空港に到着、新しくてきれいな空港だ。名古屋のメンバーと合流するまでの間、セントレアの展望風呂にて一休み。あがったあとはビールで乾杯!それから一人でうどんを食べに行く。かなりいい気分でイルファー名古屋のメンバー6人と合流。
ここからまずドバイ空港まで飛ぶ。半日ほどかかるのでここで睡眠を取っておかなくてはいけない。ふと目が覚めるとエコノミー症候群になりかけているのか、足が異常な程むくんでいる。こんなところで血栓症になってしまったら元も子もないので、一生懸命自分で指圧。さすがに11時間飛行機に乗り続けるのは大変な事だと実感。中東のドバイ空港に到着。お金持ちの国ドバイ。ここは税金のかからない国だと聞いて驚いた。空港内も立派である。次の乗り継ぎまで6時間。ゆっくりと空港内を見学。空港内のバーにて何杯かビールを飲む。名古屋の森下先生は数少ないタバコ仲間。2人でタバコを吸う場所を探して徘徊。そういう場所を見つけると2〜3本吸い貯めする。ナイロビまで、また6時間飛行機に乗ることになる。寝ているあいだにナイロビ到着!空港内では警備に当たってる人間が自動小銃を肩からぶら下げて歩いている。なんとも物々しい雰囲気を感じた。ナイロビ空港イルファーの車が迎えに来てくれていた。荷物を運んでいると、見知らぬ青年が走ってきてその重たい荷物を持ってくれた。僕は思わず「サンキュー」と荷物を渡してしまった。アフリカの人はとても親切なんだなと感動していた。車まで運び終えるとその青年が寄ってきて指を3本出し「スリーダラー」と言った...「運んでやったんだから3ドルよこせ」というのだ。思わず「ソーリーノーマネー」と慣れない英語っぽい言葉で返した。その青年に舌打ちされてしまった。それは親切なんかじゃなく、タカリなのだということを後から教えてもらった。到着して早々これかとショックをうける。
空港から私達が泊まるアパートまで30分ほどで到着すると言う話であったが、いきなりの渋滞。ナイロビ市街はもの凄く都会で驚いた。何十階建ての高層建築物がたくさん建っているのだ。それから車の数がすごい、感動したのが日本車の人気ぶりだ。TOYOTA,NISSAN,HONDA,MITSUBISI,SUBARU,etc走っている車の半数以上が日本車だった。日本では絶対に車検を通らないようなボロボロな車もここでは販売されている。一般車両は車検が必要ないのだという。整備不良の車も多いせいか、街の中は目が痛くなるほど排気ガスが充満している。現地のドライバーは動体視力の差なのか身体能力の差なのか、かなり無謀な運転をする。スピードも出ているが、急ハンドル急ブレーキは当たり前、隙があれば入る、入られたほうはクラクションを鳴らし煽る。常に車両の間隔はギリギリでいつ接触してもおかしくない。譲り合いと言う言葉はここでは存在しないのか。稲田先生が運転手のトムに向かって「ポレポレ(ゆっくり)」と言って笑っている。慣れと言うのは恐ろしいものだ。もうだめかなと思う瞬間が何度かあったが、そんな運転でも寝てしまっている自分がいることに気づく。結局空港を出発してから1時間半程でアパートに到着。警備員つきの立派なアパートだった。裏庭にプールも付いていた。部屋は2階建ての4LDK。宮城島、須藤、清水の3人部屋だった。自分たちの寝る部屋を決めて荷物を整理する。その後アパート近くにあるブルーバードホテルのレストランにてスタッフ顔合わせ及び夕食会。様々な職種の人間がここに集う。名刺の肩書きを見ると恐縮してしまうほどすごい人たちだ。大変なところに来てしまったんだなと気づく。
初めて飲むビール「タスカー」はかなりおいしい。注文の時、皆が「Cold Beer」と頼むのが結構おかしい。そう頼まないと常温のビールが出されると聞いた。明日からこのメンバーと行動を共にする、すごくわくわくしていた。

9月15日(土)
到着して2日目。
朝4時に起床。日本ではありえない時間に起きてしまった。
この日はメディカルキャンプを行うプムワニ村に行く日だった。朝はレストランで食事。アパートの駐車場に集まり出発。ナイロビの立派な建造物を見ていると「こんなところにスラム?」と感じる。しかし少し中心市街地から外れると、錆びた鉄板屋根が増えてくる。目的地に近づくにつれゴミの量が増えていく。ひどい衛生状態だ。子供たちはその中で平気で遊んでいる。ここに人が暮らしているのかと呆気にとられる。春先なのでまだ虫はそんなに発生していなかったが、夏場になったらどんな風になるのだろうと不安になる。
目的地の集会場に到着。なぜか他のイベントが開催されている...どうやらダブルブッキングだったらしい。急遽近くにあるプムワニメディカルに会場を移すことになる。ドロドロの道のりを歩く...出会う子供達の笑顔はとても可愛いかった。笑ったときに見せる真っ白い歯がとても印象的だった。
診察到着して早速用意をはじめるが、使える部屋はゴミだらけ大掃除から始まる。カビなのか埃なのかわからないぐらい真っ黒だ。プムワニ村の現状がこのメディカルから想像出来た。医療以前の問題が山積みである。そんな中スタッフは皆プロの仕事をしていた。この人たちは凄いなと感じた。数人に鍼を打つ事が出来た。須藤さんは持ってきた「なごみ灸」の使い方を患者に教えていた。16時診察終了。会場が急遽変わったせいか患者は少なかったが、何とか無事1日が終わった。

9月16日(日)
到着して3日目、パソコンを壊してしまった。ベットの上でパソコンをしていて、そのまま寝てしまったらしく、現地時間の朝4時に目覚めた時にはパソコンが床に落下していた。電源を入れてみるとハードディスクが動いている音は聞こえたが、画面が映らない。泣きそうになった。ドライバーを持っていたので取りあえずパソコンを解体、幸い液晶の信号ケーブルが抜けていただけだった。よかった生きてる。
気がつくと6時になっていた...頭が痛い...筋緊張性頭痛か?部屋の電気が壊れていて、ベットの横にあるランプの明かりだけ作業していたせいかもしれない。そういえば今日はナクル湖にいく日だったなぁと後から気付く。メディカルキャンプに初めて参加するメンバーにのみ与えられるチャンス。絶対に行きたい。須藤、宮城島両名が起きてきた時に「頭が痛いです」と相談。宮城島先生からボルタレン錠をもらい服用。すごい!痛みが治まった!宮城島先生に感謝!
朝食は森下さんが大量の食材を買ってきて作ってくれていた。とてもおいしかった。作る手伝いを出来なかったので、森下さんに感謝しながら一生懸命食器を洗った。
一時はどうなることかと思ったがナクル湖に向かっていざ出発!運転手のトム、レイモンド、佐藤先生、植木さん、山岡さん、久保清香さん、自分を含め7名の旅が始まった。片道3時間の道のりはもったいないことにほとんど寝ていた。ナクル湖自然公園に着き、お猿さんのお出迎え。小猿が母猿について歩いてるのを見てすごく微笑ましかった。フラミンゴ湖に向かって走っていくと湖の色がおかしい。ピンク色の湖だ。どんどん近づいて行くとフラミンゴの群れ...何万羽いるのだろう...その数の多さに圧倒される。壮大に広がる大自然、多種多様な生物がそこに生息する。もの凄い生命のエネルギーを感じた。ケニアには大小様々な国立公園が59箇所あると聞きさらに驚く。しかし草木や動物の違いはあるが、どことなく北海道の田舎道を走っているような感覚さえある。ケニアとは規模がかなり違うだろうが、北海道の大自然も引けを取らないと感じる。国立公園を2つ持っている釧路って物凄いところなのかもなぁと再認識する旅だった。
帰り道も熟睡、そのおかげで飛行機の中での疲れも取れた。ふと目が覚めると運転手がトムからレイモンドに替わっていた。トムが夜目が利かないと助手席に座っていたレイモンドに訴え、レイモンドが運転を替わったみたいだった。このナイロビで運転しているレイモンドの行動力と度胸に敬意を表したい。

9月17日(月)
今日から本格的な診察が開始される。最初は凄く緊張していたが、余計なことを考えている暇の無いくらい沢山の患者が待っていた。沢山の患者停電になっていることすら気づかずに黙々と治療に専念していた。おばさんたちはなぜか肥満の人が多く、貧困なのに肥満?とちょっと頭をかしげた。鍼灸のブースにも肥満の人たちがたくさんやってきて、決まって腰と膝を指差す。「ムチュング ハパ」ここが痛いよと訴える。須藤さんがそんな肥満のおばさん達に「No Suger No Oil」とアドバイスしているのを見ていて、偉いなぁと感心していた。現実問題として、ミネラルウォーターよりコカコーラのほうが安い。1リットルのコカコーラが40ケニアシリング(約80円)に比べて1リットルのミネラルウォーターが100ケニアシリング(約200円)となっている。下手するとミネラルウォーターは日本より高いかもしれない。なので貧しい人たちは水がわりにコーラなどを飲む事になる。貧しいのに肥満が増えている背景には、こういう問題もあるのかと納得。でも僕はコーラが大好きなので1リットルの瓶入りのコーラを2本買ってきてしまいました。
言葉の壁はあったが、痛みを訴える場所も、痛点も、鍼を打つ場所も普段とかわらない。知っている英語と、憶えたてのスワヒリ語で応戦。何とか無事に終了。患者にアドバイスできないのが非常に残念だったが、言葉って凄く大切なものだと感じさせられる1日でした。

9月18日(火)
9時に現地到着。準備をして10時ごろから診療開始となる。
現地ボランティアの方達が掃除をしてくれているが、埃が舞って凄く目が痛い。鍼治療そんな中須藤さんが床に水を撒きはじめた。その後テーブルと椅子を雑巾で拭いているのを見て、現地ボランティアの方が真似して拭いている。教育って大事だなぁと感じた。文化を押し付けるのではなく、彼らが必要だなと思える技術を彼らが選んで憶える。とてもすばらしい交流をしている。
ナイロビではタバコを公共の場所で吸っていると罰金を科せられると聞いてびっくりした。罰金は初犯2000ケニアシリング(約4000円)もしくは6カ月の禁固刑が科されると言う。こんなところにまで禁煙の波が...しかもその法令が警察もいないようなこのスラムでも適応されている、何ともアンバランスな感じがして笑えた。治療が一段落したので、建物の陰に隠れてタバコを吸う。なんとも懐かしい感じがした。そこへひとりの青年がニコニコしながら寄ってきた。こ、これはやばいかもしれない...冷や汗が出た。彼は人差し指を1本立てた。そういうことかと1本あげた。「サンキューブラザー」とコブシを出してきたのでコブシで返す。兄弟になってしまった。20本入りのタバコが大体70ケニアシリング(140円ぐらい)で売っている。タバコ屋ではそれを1本から販売しているという。20本入りのタバコを買えない人たちが1〜2本から購入しているという現実。1日1ドルぐらいの収入で生活しているって本当なんだなぁと感じた瞬間だった。

9月20日(木)
疲れが溜まってきたのか、朝寝坊をしてしまった。
朝から行列ができていた。体がだるいので集会場の裏口で座っていると通りがかりの青年が「マンボ」と挨拶してきた。「マンボ?」初体験の挨拶だった。「ムズーリ」と言われたら「ハバーリ」と答える。「ハバーリ」と言われたら「ムズーリ」と答える。これはアフリカの一般的な挨拶である。そこで近くにいた佐藤先生に聞いてみることにした。スラングらしいのだが「マンボ」「ポア」といってコブシを付き合わせる挨拶が若者の間で流行していると言う。突然「マンボ」と言われるとちょっと考える。「ポア」が成功したのは3人目の時だった。「Oh」と言ってお互い抱擁。ナウい(死語?)挨拶成功である。
その夜、いつものようにアパート48号室にて夕食を食べ、皆でお酒を飲んでいた。ベランダでタバコを吸っていたときに稲田先生もタバコを吸いにやってきた。そこで色々な話を聞かせてくれた。中でも一番印象的だったのは「薬理試験」の話だった。アフリカのスラムでHIV/AIDS等の薬理臨床試験が行われているのだ。スラムの人々は自分達の命と引き換えに、医療と食料を供給してもらっているという話だった。スラム住民は貧困のため食糧難や医療を受けられないという現状もあって、国家機関や製薬会社・企業等からそれらを援助してもらう変わりに、自分達が薬理試験や最新医療機器などの被検体になることを容認してきたと言う。その日を生き抜くために、そうなることを望んでいる人々は少なくないのだと言う。こうした犠牲の上にHIV治療薬が存在するのかと考えると、とても複雑な気持ちになる。ギブアンドテイクで片付けられる話ではないからだ。以前見たナイロビを舞台にした映画で「ナイロビの人間の命は安い」と言うようなセリフがあったが、それを思い出した。人間の命の重さを考えさせられる話だった。

9月21日(金)
一般診療最終日。
最終日なのでかなり忙しいだろうと思って覚悟していたが、鍼治療に来た患者の数はいつもと変わらなかった。久保清香早めに後片付けをして内部の写真を撮っていた。それでも相変わらず薬局は忙しそうだった。間違いなくすべてのブースの中で一番過酷な作業をしていたのだろうと感じる。久保さんは初参加ながらその過酷な作業をこなし、周りのスタッフから高い評価と信頼を得ていた。
診察が終了し、地元ボランティアの方達からキャンプ初参加者に対してケニアの衣装がプレゼントされた。ひとりひとり呼ばれると皆照れくさそうに前に出て衣装を着せてもらう。なかなか格好いいものである。特にケニアの衣装を身にまとった女性達は普段より1.5倍ぐらい美しく見えた。

9月22日(土)
朝、壊れてしまった靴を捨てようかどうしようか迷っていた。キャンプ地のゴミ置き場のところに置いておけば、もしかしたら欲しい人が直して使うかもしれない。そう思って袋に入れてごみ捨て場まで持って行った、近くにいた若者から声をかけられた「それなに?」と聞いてきたので、その壊れた靴を見せると「Oh!」と言った。「ブロークンシューズ」と説明すると「ノープロブレム サンキューブラザー」と言って、その袋を持って大喜びで仲間に見せに行った。そんな壊れたものでも、そんなに喜んでくれるんだ。嬉しさとは裏腹に凄く複雑な感情が込み上げてくる。
この日は一般診療は無く、HIV陽性者へのフォローアップがメインのはずだった。しかし朝から一般診療の希望者が列を作っていて、鍼灸のブースもあけることになった。結局鍼灸ブースは、今回のキャンプの中で一番忙しかった。忙しくて注意散漫になっていたせいか、ひとりの中年女性の腰部に鍼をしていた時「ジーザス」と言って急に泣き始めてしまった。聞くと鍼をうった場所が物凄く痛いと言う。「ソーリー」と言って鍼をすぐ抜いたがそれでも痛いと言って泣いている。この日使用していた鍼は1番のディスポ鍼、持ってきた鍼の中では最も細い鍼だった。激痛を伴うような鍼ではないはず。がしかし目の前で泣いている女性がいる。鍼した場所を揉みながら、何度も謝るが女性は目を合わせてくれない。そこに須藤さんが「どうしたの?」と言ってフォローに入ってくれた。女性に説明してくれていた。心配そうに見ていると「大丈夫、大丈夫」と言ってその女性の足に鍼をうっていた。女性は平気な顔をして座っていた。今まで10数年治療してきて、鍼をして泣かせてしまったのは初めての経験だった。最後の最後に大失態である。須藤さんがいなかったらいったいどうなっていたのだろう。感謝の言葉も見つからない。自分の未熟さを痛感する出来事だった。
アフリカでは1日1食の生活をしている人達がたくさんいるんだよと聞かされた。僕には子供が2人いる。子供たちがご飯を食べ残した時には「世界にはご飯を食べられない子達がたくさんいるのに」と言い聞かせてきたが、実際にそういう子達を見たことがあったわけではない。一度この目で見ておきたい。治療がひと段落ついたところで、地元のボランティアの方についてきてもらい村の中を歩いてみた。琵琶ぐらいの大きさの果物をひとつ両手で持ちながら一生懸命食べている3歳ぐらいの子を見た。もしかしたら今日この子のご飯はこれひとつなのかな...平気でご飯を残してしまう「うちの子達」にこの現実を見て欲しかった。

9月23日(日)
帰国の日。
この日の朝、プムワニの学校への訪問に出かける。たくさんの子供達がいた。親のいない孤児達もいると言う。5〜6歳の子が寄ってきて、ぎゅっと手を握ってくる。とても自然で自分の子がそうしているような感覚だった。子供達は私達に「感謝の踊り」を一生懸命踊ってみせてくれた。2人の男の子に手を引かれ一緒に踊った。子供達に囲まれ太鼓もたたいてみた。
ブルーバードのレストランでナイロビ最後の食事をとる。これで一緒に頑張ってきたスタッフたちともお別れだ。2日後にはいつもの生活に戻る...とても複雑な気持ちだった。

〜鍼灸師として感じたこと〜
おそらく鍼灸師になってはじめてHIV/AIDS患者へ鍼をうったのだろうと思うが特に気構えは無かった。鍼灸ブースに回ってくる患者の中には不定愁訴や原因不明の痛みを伴う疾患が多く、直感的に鍼灸の適応外であることを感じる患者も少なくない。世界的にも減少傾向にあるポリオや先天的な奇形・事故などによる外傷性の変形、整形外科医が必要な病気が結構多かったように思える。その他胸の苦しさや腹痛など内臓疾患を患っている可能性のある患者もいたので、その時は宮城島先生にフォローしてもらいました。鍼灸の弱点は骨の疾患に対しての治療法がほとんど確立されていないこと、ウィルス性や細菌性の疾患などには禁忌である事。何年か前にアメリカやロシアなどで、HIV/AIDS患者を対象に免疫力増加を図って鍼灸治療をしていた論文を読んだ事もあるが、残念なことに最近見なくなってしまった。ここではあらゆる問題が病気へと繋がっている、政治・経済・医療・宗教・環境衛生・公害・食生活・貧困・犯罪・売春・一夫多妻・近親相姦...NGOイルファーは医療ボランティアという形でスラムの人たちにアプローチしてきたが、スラムの人間だけでは絶対に解決できない「何か」がここには存在する。その「何か」を解決していかないと、結局彼らは自立できないのだろうと感じる。私達が当たり前と思っている幸せと、彼らが当たり前だと思っている現実のギャップ。幸せの形を押し付けたいわけではない、せめて飢えや病気から救ってあげられないものなのだろうか。鍼灸師として、1人の人間としてそんな彼らに何をしてあげられるのだろうと最近よく考える。まだ頭の中が色々な情報で氾濫しているが、これからそれを良く咀嚼して、飲み込んで消化吸収する作業が自分の課題である。

〜キャンプに参加して思ったこと〜
このメディカルキャンプに参加できたことは自分の中の誇りです。宮城島、須藤、久保イルファー釧路のスタッフとして宮城島先生、須藤さん、久保さんと共に参加できたこと。他の土地で頑張っているイルファーメンバーに出会えたこと。日立グループの方達がイルファーのメンバーとして共に頑張ってくれたこと。PVHCやAMREFとの交流。たくさんの方々に出会えたこと。貴重な経験と非常に濃度の濃い2週間を過ごしました。このチャンスを与えてくれたイルファー釧路のメンバーと、それを陰で支えてくれたイルファーの会員の方達に心より感謝致します。本当にありがとうございました。今後この経験を生かせるよう頑張りたいと思います。