ケニアレポート(2007)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

ケニア日記'07 / 宮城島拓人(内科医 イルファー釧路代表)

ナイロビは雨だった(9月14日)
丸一日かけて、小雨の降る中ケニア・ナイロビに着いた。名古屋で合流した内海、山本両先生と森下検査技師、岡本看護師。彼らはケニアキャンプの常連。今年の名古屋組の初参加は植木看護師と山川さんという名大の保健学部の学生さん。懸案の税関は、なんとか通過、ケニアに寄付したマイクロバスのエンジンの部品を日本から調達し持ち込んだのだが、それに税金がかけられたことくらいで、持ち込み薬剤にはノータッチであったのが幸い。しかし毎年冷や冷やものでの通関は寿命が縮まる思いがする。タンザニア経由で到着した佐藤医師と落ち合い、ナイロビ市内に向かったはいいが、ひどい交通渋滞に引っかかった。普段は30分くらいで着くはずが、2時間以上かってへとへとになりながら夜目的のアパートにたどり着いた。車中で、JICA帯広から紹介されたシャンビさんに電話。明日診療所で逢う約束をする。前夜祭パーティー(イルファーと日立と)夜の晩餐会には、ニューヨーク組は間に合わなかったが、日立製作所の職員が総勢6人と、生化学検査分析機器の発明者、只野先生が参加。大きな会となった。生化学分析器を今回のキャンプで始めて導入するにあたり、その開発関係者と電気が通っていないところを想定して燃料電池の開発担当者のプロジェクトチームが派遣されたようだ。今年初参加の佐藤医師は、発展途上国への医療支援を積極的に展開してきた方で、熱帯医学をイギリスまで行って勉強してきている強者である。いわゆる国際医療協力のプロ。我々が経験だけで培ってきた診療に一石を投じてくれることを期待しているとともに、そのノウハウを少しでも学び取りたいと思っている。
今年のキャンプにかける思いは大きい。まずは、リーダー交代の2年目、地元のNGO(Pumwani health comittee:PMHC)が一枚岩で継続しているか。ニューリーダたちのモチベーションが維持されているかも大切な問題だ。そしてHIV陽性者をどのくらいフォローしてくれているか、この大問題は明日のキャンプ一日目を開けてみなければわからない。そしてこちら側の問題、佐藤先生やJICA,シャンビさんなどの新しい血をどうやって取り入れバージョンアップをしていくか。最期に苦しい経済情勢のなか、5カ年計画などの長期的展望に立った活動の青写真を描けるかということ。私はこのキャンプが今回で7回目となるが、今回の出来が将来を決める、そんな気がしてならないのだ。

ねじ巻き鳥で目が覚めた(9月15日)
今回の、寝泊まりの場所は一昨年まで滞在したブールバードホテルのすぐ側にある、ノーフォークアパート。案の定、5時きっかりに鳴く鳥の大合唱で目が覚めた。一昨年と同じ朝だ。今日はHIV陽性者のフォローアップの日。半分予想してはいたが、やっぱり会場の用意が全く出来ていなかった。本来予定していた場所が選挙応援の会合に使われて(そんなの早くからわかってるだろうに!)急遽別なところに。部屋に埋まっていた荷物の山を取り除き、掃除をすることから始まりだ。ポレポレだよまったく。どうもプムワニのメンバーの統率があまりうまくいっていないようだ。3人のニューリーダー達はお互いを良く思っていない風がある。まあそれは後でゆっくり語ることとして、結局昼抜きで午後から診療開始となった。腹減ったなんて言ってる暇もなく(仕方ない、ラマダンだもの)、陽性者と対峙した。昨年の秋の検査で耐性ウイルスが判明した30代の女性。にもかかわらず薬の組み合わせが全く変わっていない。不思議に思って尋ねてみると、主治医にそのことを話したのだけど、全く取り合ってくれなかったと。案の定CD4も200まで下がっている。これは大問題。早々、現地の病院に薬剤変更の依頼の手紙を書く。HIVの薬はただで供給出来るようにまでなったケニアではあるが、服薬に関する細やかさがまだ行き届いていないことを物語っている。もしかしたら替えようにも替える薬がないというきわめて厳しい(日本では考えられないこと)現実があるのかもしれない。しかし彼女はすでに、日和見感染を起こしてしまっているようだ。手紙と抗真菌剤を携えて帰っていったが、来年再び会うことが出来るだろうか?なんか悲しい。しかし未来に光明を投げかけるような出来事もあった。日立のラボと今回は、日立の分析器が稼働、HIV検査ともに、生化学検査が提供可能になった。陽性者フォローアップには、HIV耐性獲得検査を是非としてお願いしているが、生化学検査(肝機能や腎機能、コレステロール、血糖など)も迅速分析器で確認することが出来、副作用の予防対策の一助になること間違いない。日立側としては、電気も思うように確保できず、精密機器としては致命的な粉塵の多いナイロビ、スラム地区で、燃料電池の試作稼働を含め、要求通りの検査結果が出すことが出来れば成功である。小さな薄暗い部屋を割り当てられ黙々と検査を請け負う姿は称賛に値する。日本の技術者のすごさをかいま見たようだった。十数人の陽性者の生化学検査を試行したが、不思議なことにコレステロールが高い人が少々いただけで、ほとんど全員が正常値だった。メタボリック症候群など見あたらず、もしかして日本人より健康的かもしれない。

内海先生がこけた!(9月16日)
朝起きたら、内海先生が寝込んでいた。めまい発作が起きたらしい。頭を動かすと強いめまいに襲われるようで今日は休診。やっぱり過労がたたったのかもしれない。早く良くなって欲しいと願いながら、HIV陽性者フォローアップHIVフォローアップに向かう。キャンプ初参加部隊がナクル湖へサファリツアーに出掛けたので、内科医二人で診療を受け持った。陽性者の半数近くはすでに抗HIV薬を服用している。CD4の値も理解しているし飲んでいる薬も大方きちんと服用している。数年前はCD4どころか治療のすべもなかったことを考えると大変な進歩である。しかし薬剤耐性は確実に増えている。これは見逃すことの出来ない事実なのだ。その増加率は間違いなく日本を凌いでいる。理由は簡単である。ちゃんと飲んでいないか副作用対策が不十分だから。服薬指導の必要性を改めて感じる。夕方は明日から始まる本格的なキャンプのレイアウトを行った。昨年までの場所からすこし離れたシティーホールを借り受ける事が出来た。インド系アメリカ人のマダニ内科医が明日から加わり内科5人、昨年から引き続き小児科医はエマ、そして歯科医は初参加のニューヨークの黒人レイモンド。スキンヘッドで筋骨隆々しかしフレンドリーなこれから一緒に仕事することが楽しくなるような33歳である。薬局は3年連続参加の岡本さんが中心になって運営してくれると確信している。リーダーとの綿密な話し合いのあとプムワニを後にした。夜は、せっかくのアパート暮らしなのだからと、自炊に決定。5年連続参加の森下さんの陣頭指揮とたぐいまれな料理手腕に頼りながら日立部隊と合同のホームパーティーとなった。我らが須藤の芋わかめ味噌汁とポテトサラダは絶品と評価された。ただし芋の皮むきは私が精魂込めてやったと報告しておくことにする。いよいよ明日からが本番だ。内海先生の容体を気にしながら、怒濤の様に押し寄せる患者に思いをはせ早めに寝ることにする。覚悟は出来ている。

停電の中で(9月17日)
いよいよ本番が始まった。いつものようにベニヤ板の仕切りで、それぞれのブースを作り、セッティングを開始したのが、10時過ぎ。結局11時半からの診療となった。外では多くの患者さんが列を作って待っているのに、診察待合い風景受付業務の不慣れさから余計に待たせた気がする。とにかくクリニックが始動した。今日始めてわかったことに、アラスカの病院から看護師がふたりボランティアで診療援助に来るという。レジスタードナースというのはかなり現場でも力があるらしい。診察はもちろんのこと処方さえも自分で可能でそれだけの能力が備わっているのだ。そのため今回のキャンプでは医者と寸分違わない、外来を担当してもらった。結局内科医4人、ナース2人、小児科医1人という大所帯で診療は開始。しかし処方箋が多くなりすぎ、処方が追いつかないという事態に発展。最後は早く診療を切り上げた医者が薬剤を調整することで、なんとか日没コールドを免れた。今日のドラマは薬局にあった。ラマダンの最中のクリニックで、ボランティアのモチベーションを気にしてはいたが、なんとか事なきを得たと言える。強いてあげるのなら、昨年と違い通訳が1人に固定されておらず、十分な事前ミーティングがなされていない印象を持った。とにかく初日が始まった。停電のおかげでいみじくも日立の燃料電池の効果を確認出来たのは副産物である。自分自身の診療実績は37名、そのうち5名がHIV検査に同意された。

行きつ戻りつ(9月18日)
やっと身体のエンジンがかかってきた。というより私自身ケニアでの診療を思い出したのだろう、スワヒリ語と英語のチャンポンもなにか心地よく耳に響いてくる。ニューリーダー、アリ・ウエンベの指導のもと準備は比較的早く進んだ。いいぞ、いいぞ。内海先生も復活、ケニア出身のインド系内科女医、マダニさん(もう3〜4回、このキャンプに参加している、コロンビア大学出身の才女。スワヒリ語を自由に操れるのがすごい)の参加も力強い。しかし結局のところ、我々医者はニューヨークとアラスカと日本の寄り合いだから、意思統一が必要と、医者による朝のミーティング朝自主的にミーティングをした。処方の書き方の統一、薬剤の在庫確認、デイリーレポートの確認など。昨日とは少し違う。重い車輪が動き出した、そんな感じがした。そうは言っても、昨年のスムーズさとはちょっと異質。外来をこなしながら何が違うのかを考えていた。場所が変わったのも一つ。昨年よりも広く、綺麗で一見申し分がないように思われるのだが、慣れないせいかなんとなく要領を得ない。それからやはり、リーダー達の統率力が見えてこない。アリとキャサリンは精一杯頑張っているが、もう1人のゴギャンニョが少し距離を置いている。昨年は毎日朝、メンバーのミーティングが自主的にあったし、一つ一つ決まり事を確認していた。今回はそれがみられない。結局、稲田先生やアリに問題解決のしわ寄せが来る。なんか一昨年に逆戻りの印象が拭えない。しかし、昨日とはちょっと違う今日を経験し、また明日に期待を感じた。内科医が多数参加しているせいか、昨年より1人あたりの患者が減っているが、そのせいで、ゆっくりとコミュニケーションが取れる。これはいいことだ。鍼灸のブースも活気が出てきた。このキャンプに参加してきた歴代の鍼灸師の写真がはってあった。須藤君のセンスだろう。楽しくやること、来てくれる患者にも楽しさを分けてあげること、これも仕事の一つと考える。

新しい風(9月19日)
9時半には診療開始。まれにみるスピーディーさである。入り口の受付もスムーズとなりみんな要領を覚えてきた。動きに無駄がなくなっている。歯科医を含めて9人の医者(二人は看護師であるが)が一斉に診療を開始し、一斉に処方が飛び交うため、薬局の忙しさは大変なものであったが、岡本さんを中心とする炎の薬局!日本人三人娘?は黙々と処方業務に没頭していた。受け渡しを間違えないように、処方内容にミスがないように、最大の神経を集中しながらそして数をこなしていく。これは、診療する側よりも、密度の濃い仕事である。今日までの登録患者数は850人、少なく見積もっても800件の処方が出たことになる。日本から持ってきた薬も切れ始めてきた。あと三日の診療に間に合うような処方の調整が必要になるかもしれない。診療が終わって、シャンビさんが尋ねて来た。実は日曜日のHIV陽性者フォローアップの時にも来てくれたが、診療で忙しくて簡単な挨拶で終わっていたのだ。過去のフイールドワークの時からプムワニのメンバーをよく知っていたので話はスムーズに進み、プムワニを拠点にして、栄養管理やその実際についてレクチャーしてくれることになった。HIVと栄養、我々のキャンプに欠けていたものがまた一つ補充させそうな予感。これもJICAとの交流から生まれた大きなそして確かな一歩だ。そして夜もう一つ、新しいつながりの芽を経験した。50年の歴史を持ちアフリカ最大のヘルスケアーNGO、AMREF(African Medical and Research Foundation)という組織がある。国境無き医師団のアフリカ版と考えておおよそ間違いはないが、フライングドクターを組織して、求められたところに飛行機で飛んでいくことから始まった活動が、今やHIVケアーなど幅広い医療保健活動をアフリカ全土に展開している。ここナイロビでもキベラという最大のスラム地区でHIVのVCT、薬剤の供給などを行っている。そのAMREFの現地代表の家にバーベキューパーティーに招かれた。最大で強力なNGOと弱小NGO(イルファー)はいかにも不釣り合いに見えるが、目的は同じ。今後さらに交流を深め情報交換や、ノウハウの吸収などが出来ることを願う。極論かもしれないが、イルファーの医療キャンプをさらに発展させ継続させるには、AMREFの傘下に入ることも一つではないかとも思っている。稲田先生がAMREFの職員としてオフィシャルな活動をし、彼のプライベートな分野に今のイルファーの活動を位置づける。未来の青写真の一つかもしれない。今日は朝からすごく良い天気で暖かかったが、午後に隙間から吹き付ける突風に埃まみれとなりながら、鼻の穴を真っ黒にしながら診療を終えた。夏の風と彼らは言う。夏に吹く風ではなくて、夏が近いことを知らせる風だと。なるほど、ナイロビは南半球にあった。

シャンビさんの栄養教室(9月20日)
キャンプ第4日め。診療の流れはスムーズにいっている。今日は個人的には50人を越える患者を診察した。それでも昨年までの数(平均して80人前後)よりは少なく、余裕を感じる。もちろん全体では一日で400人程度が来ているので医者が多いからの余裕だろう。しかし薬の在庫がかなり乏しくなり、心細い。
最近思うことは、このキャンプに行き始めたころと患者の質が変わってきたように感じる。昔は関節の痛みや目の痛み、咳などの単純な症状と、一方では取り返しのつかないような悪液質や、リンパ腫を疑うような腫れ物をもった重症な人たちの両極端だったような気がする。しかし最近はいつも釧路で診るような、消化器症状や呼吸器症状、そして高血圧や糖尿病などメタボ系が増えてきている。不眠を訴える人も時々見かける。と、同時に目も当てられないような重症患者が減っている。加えて、明らかにエイズとわかる症状を持つ患者も減ってきている気がする。地元での医療機関へのアクセスが以前より閾値が低くなったこととVCTによりHIVの拾い上げが進んでいる結果なのかもしれない。
シャンビさんによる栄養教室午後シャンビさんがフードモデルや栄養価の高い穀物などを持ってきて、クリニックの片隅で栄養教室を開いていた。限られた食材からいかに栄養価を引き出すか?立ち止まって聞く住民に盛んに説明をしていた。いい光景だ。
今日始めて、ケニアシリングに両替。今までキャンプの往復だけでいかに金を使っていなかったかがわかる。釧路に残っているみんなにどんなおみやげが良いのだろうかとやっと考えることが出来た。これも余裕が出来たからか。後一日と半日で今年のキャンプは終わる。

やはり教育が大切だ!(9月21日)
昨夜は再びアパートで自炊。森下さんと須藤君の手際のよさで、肉じゃがや豚汁、ピーマンの油炒め、サフランライスなどができあがった。日立の市毛さんのパスタも加わりとても豪華な晩餐。今回のアパートはメゾネット式の3LDKを3人でシェアーする形式。昨年のようなホテルよりはずっと安いし、画一的はホテルレストランの食事よりも、自炊が加わることでバラエティーと日本的食感が得られる。すごく快適だ。ただし、大切な条件は、料理を作るのが好きで苦にならない人がメンバーに居ること。身勝手な考えだけど。
今日の診療は最後の追い込みとばかりに、気合いを入れて4時まで受け付け。個人的には64人。この5日間でクリニックトータル1600人を越えた。HIVの陽性率は16%とやはり低下しているようだ。昨年の暮れからケニアでも妊婦検診にHIVテストを義務づけた。そのおかげで、1歳以下の子供を連れている女性はすでに自分のステイタスを知っている。7年前始めてキャンプに参加したころは、政府はHIVに対してはほとんど手つかずであった事を考えると隔世の感がある。妊婦検診でHIV陽性となった場合はART(抗HIV剤)がHAARTとして投与される。もちろん無料である。ここまで来た。そんな思いを新たにした。しかし、予防啓発はというと、まだまだである。こんな事実がある。外来で生理が頻回に来るとか、吐き気がするとか、食欲がないとか、多くの不定愁訴を訴える女性が後を絶たない。どうしてなのかといろいろ調べてみると、バースコントロールのための注射を打っていることがわかった。いわゆる薬剤による避妊である。その薬剤による副作用だったのだ。じゃあそんなもの止めればいいと話すと、釧路から参加した4人パートナーがコンドームをつけるのを好まないからと平気で話している。それではどのくらいの女性がバースコントロールをしているのかと通訳に聞いてみると、ある程度の数の子供を産んだほとんどの女性はそうしていると。なんかおかしい。副作用に苦労しながら、避妊をしている現実と、男達の無知。結局HIVを始めとする性感染予防にはまったく無関心としか言えない。どんなに政府が薬剤を供給しても、本質的にはここから啓発しなくてはだめなのじゃないかと改めて感じた。やはり子供の時からの教育である。そんな思いを抱きながら、兎に角、こうして一般外来は終了した。釧路からの4人、それぞれの部署できっちりとミッションを果たした。そこにはすがすがしい顔があった。

ちょっと不完全燃焼だったが、、(9月22日)
最後の一日は当初の予定を変更して、HIV陽性者のフォーローアップになった。最初の土日のフォローアップにHIV患者が予定より少なかったのが原因だった。にもかかわらず朝から一般外来を希望する患者があふれ、会場は混乱。予定変更が地域住民にうまく伝わっていなかったのだろう。HIV患者はもちろんのこと、せっかく並んでいる患者さんの中から重症者をトリアージして一緒に診ることにしたのだが、なかなかそのトリアージがうまくいかず、薬をもらいたいばかりに重症を装って登録する患者が後を絶たなかった。仕方のないことだが、ストレスを感じてしまう。しかし鍼灸部門は怒濤の最終日。半日で50人を越えたという。鍼灸は格闘技だとは須藤鍼灸師の話。まさにその通りであった。
このキャンプで陽性が判明した患者のメディカルチェックも同時に行いリストを作成したが、陽性者の告知は、つたない英語ではかなりこれもストレスであった。地元メンバーから感謝のセレモニー心のひだを読み取りながら言葉を探すことは現地語でなくては不可能で、やはり現地のカウンセリング体制を確立しなくてはならないと感じた。しかし陽性を淡々と受け入れる人が多いのには驚いた。日本との基本的な環境の違いだろうか。結局半日で終わるはずのクリニックが3時過ぎまで伸びてしまった。順調に来ていたキャンプも最終日が時間に追われ不完全のままに終わってしまい、やや悔いが残った。が、しかし終わった。夕方近くになってマサイマーケットで、土産物を物色して夜はアパートで最後の自炊宴会。まだまだ夜は終わりそうもない。明日は機上の人になる。長い帰路の間にゆっくり今回の総括を考えようと思う。

今年のケニアキャンプの私的総括
今年のキャンプはラマダンの時期と重なった。つまりイスラム教徒は日の出ている間は一切なにも口に出来ないということ。プムワニなどのスラム街はほとんどがイスラム教徒であるので(ケニア自体は半数以上がキリスト教であるが、貧困層はイスラムが多い)プムワニのメンバーもほとんどが昼食をとらないことになる。医療キャンプにおける昼食は地元の炊き出しであるが、イルファーから出資しているのだ。すなわちこの昼食を励みにキャンプのお手伝いをしているボランティアもいるし、きっとそのほうが多いだろう。ラマダンのため昼食が取れず、彼らはどう考えるのか。案の定、昼食の代わりの金銭を要求してきた。これが一つの問題だった。稲田先生はボランティアに賃金を払う頭はなかった。あくまでもボランティアとしての活動を要求した。しかし現実は一日一ドルを稼ぐのがやっとの人たちである。昼食にありつく事が出来るのは大変な恩恵なのだろう。結局一日1人あたり100Ksh(200円弱)を昼食代として払うことで妥協した。始めの地元の動きが鈍かったのは、このためだったと理解した。ごく一部の人を除いて彼らにとっては純粋なボランティアなど生活の現実を考えるとありえないことなのだ。地元側の問題はもう一つ根深いものがある。リーダーの確執である。昨年はニューリーダーのもとスムーズにキャンプは行われたが、その後のリーダー選挙で再び、前リーダー、アリ・ファマオが選出されたという。現在の実質的なリーダーのアリ・ウエンベはサブという位置づけらしい。そういう意味でも今回のウエンベの統率力はやや控えめに映った。しかし、誰がリーダーになろうともPVHC(PUMWANI Village Health Committee)は、我々の医療キャンプを重要な活動の一つと位置づけていることに変わりない。このようなキャンプをPVHCがオーガナイズしている(実質的には、稲田先生が1人でオーガナイズしているのであるが)ということを地域に周知させることは活動の大きなプライオリティーになるはずだからだ。我々も外人部隊だけではこのキャンプは続けられない。継続的な地元のフォローがあってこそであり、自主的な彼らの活動と我々の思惑をうまくタイアップさせるような努力が必要だろう。究極的には、タイアップするNGOが変わることもあり得る。
今回のキャンプで、新しい風を感じた。住民や受診者への栄養指導の開始や、アフリカ最大のNGO、AMREFとの接触である。一時的な薬の供給には限界がある。医学的なフォローアップと継続した栄養、食事療法が一緒に動き出せば、それは力強い。いみじくも北海道との関わりをもっていたシャンビさんの活動に期待したい。AMREFとの連携はまだ未知数だが、稲田先生1人で何から何までオーガナイズする活動には限界がある。将来は物資の管理、供給の専門家(ロジスティシャン)、医療技術の専門家それぞれが独立して役割を分担していかないといけないし、そのノウハウこそAMREFにあるのだと思う。
全員集合!ハバリヤコ!我々の活動の強みは、単に無償医療活動をしているだけではなく、HIV耐性検査を通して医学研究に寄与していることだと思う。基礎医学研究は非常に大切な分野であるが比較的地味であり、なかなか活動への寄付が集まりにくい。しかし診療活動はわかりやすくそして現実的な援助であり、ある程度寄付を期待出来る。これらをうまく結合させることで、細々ながらも活動が継続されていると思うのだ。このスタンスは自信を持って保持して行きたい。
私がこの活動に参加して7年になるが、ケニアも確実に変わっている。驚いたことに、昨年から妊婦のHIV検査が義務化され、陽性者にはARTが行われるようになった。政府が母子感染予防に本腰を入れた結果として理解できるが、母乳感染への配慮はどうだろうか?現地のフィールドワークでは把握出来なかったが、私の理解しているところでは、人工ミルクを買うお金がない状況で、どうして母乳の投与を禁止出来ようか。粉ミルクを供給したとしても、溶かす水が悪いために別な感染症で命を落とす乳児がいるだろう。結局ARTを続けながら母乳を継続することに妥協しているわけである。その点もうすこし細やかな対応が必要であるし、その隙間こそわれわれNGOの入り込む場所だと思う。
加えて、コンドームを使用しないパートナーのために、避妊治療を行い副作用で苦しんでいる女性達をみると、性感染予防啓発の一層の展開こそ必要だと痛感した今回のキャンプであった。
今年から生活の拠点はアパートになったが、なかなかどうして快適であった。自炊により食事の自由度が拡がり、ストレスない食生活を維持出来た。現地で生活しているという実感を得た。私自身は食事を作ることにはほとんど無能で、周りをうろうろしているだけだったが、自分の使った食器を自分で洗うという習慣をつけさせてくれた今年のキャンプに感謝して総括にしたいと思う。