ケニアレポート(2006)

The Inada-Lange Foundation for AIDS Research

ケニアメディカルキャンプ'06 / 宮城島拓人(内科医 イルファー釧路代表)

●9月14日
いよいよケニアに出発だ。釧路空港からチェックインするとき、釧路から直接ケニアまで荷物を預けることが出来ることが判明。いきなり肩の荷が降りた。昨年のように重量オーバーのトランクをいろいろ言い訳して許してもらわなくてもいいことになったからだ。サックスも何のことはない。楽器と申告しただけで丁寧に扱われた。日本はやっぱりいい。一時の危機意識も噂と同じで何事もなかったかのように過ぎていく。とにかく始まった。後は、無事ケニアに荷物ごと入国すること。

●9月15日
到着ほぼ丸一日たってケニアに到着。一足先に着ていた稲田先生が迎えに着てくれていたおかげで、信じられないほどスムーズに税関を突破した。昨年の苦労は何だったんだろう。トランク一杯の密輸?薬剤は無事、プムワニのみんなに届けられることになった。釧路の善意が無駄にならなくてすんだ。すべての緊張がここ一点に集中していたので、エアポートを抜けたとたんどっと力が抜けた。だからだろうか運転手のトム、そして雑用を一生懸命こなしてくれるムラーゲの顔を見つけた時、思わず涙目になった。
今年から拠点ホテルはヘロンホテルとなった。以前利用していたフェアビューホテルに近い高級住宅街のそばにある瀟洒なホテルであった。大輔とふたりの生活が始まる。いよいよ明日プムワニに向かう。今年の名古屋からの参加者はいつもの内海先生(内科医)、森下さん(検査技師)に昨年に引き続き参加の山本先生(内科医)、岡本さん(ナース、アロマテラピスト)そして新顔の竹腰さん(ナース)水谷さん(獣医師)長瀬さん(看護学校教官)。人はそろった。そして明日ニューヨークのドクターたちとも合流する。

●9月16日
キャンプ初日は、HIV陽性者のフォローアップをプムワニ村のヘルスコミティーの事務所で行った。昨年のフォローアップクリニックでの失敗(ヘルスコミティーのメンバーの意識の薄さから陽性者への伝達が不十分で予定の患者が集まらなかった)をうけて今年はどうなるかなと心配したが、予想に反して30人以上の患者が集まった。4人の医者がメディカルチェックを中心にフォローを行ったので比較的余裕をもって任務に当たることが出来た。初日対症療法的になるが、必要薬剤の投与の後はHIV検査のための採血と歯科医による口腔チェック。当然のことだが真菌感染者が多く、日本から輸入(?)した薬剤が本当に役立つ。なかには、妊娠中に陽性と判明したのにもかかわらず、なんのメディカルケアーも受けず、母乳で子供を育てている22歳のシングルマザーがいた。母子感染の危険について問うと、知ってはいたが誰にも相談できずお金もなくどうにもならなかったと。今の子は元気に育っているのできっと大丈夫と思うと事も無げに話していた。プロテクトをしないと40%以上の確率で母子感染が起こることをどう伝えたらいいのだろうか。あまりにも緊迫している状況とそれに無頓着な人々のギャプを感じる。我々の活動が有機的につながることを、そしてこのような母子感染の危機を未然に防ぐような効果を期待して頑張っているのだが、まだまだ自分の足下でもこんなことが起こっている。
今回参加したニューヨーク組は女性小児科医のエマさん(彼女はこのキャンプに二回目の参加)と、新顔で歯科医のハーパー・クレイトンという純粋なテキサス生まれの白人アメリカ人。いかにもニューヨーカーらしい雰囲気で、予想通りしゃべるのが早い!なんであいつらは自分勝手なんだろうと思うほど、第二外国語を必死でしゃべっている我々に平気でまくし立てる。それにひきかえエマさんはペルー出身のアメリカ人。第三国にやさしくゆっくり話してくれる。こんなところでも、なんとなく人種の違いを肌で感じる。
The very first dayの締めくくりは、ホテルでの大宴会。レストランでピアノの生演奏をやっているのをいいことに、なんと無謀にもサックスの飛び入り演奏をしてしまった。まさに釧路での壮行会そのままの乗り。Jambo jamboでは大受け!ついにサックスは国境を越えた。

●9月17日
歯科ケニア初めての人と外人さんはナイロビから3時間ほどのナクル湖へサファリへ行ったので、残りの古参部隊で陽性者のフォローアップを行った。日曜日ではあったが約20人が訪れた。採血係のナースたちは旅行に出かけたので、フォローアップの傍ら採血もしたが、真っ黒の皮膚から血管を探すのは一苦労である。日本人の青色の血管が恋しくなった。8歳の子供を連れてきた父親がいた。母はエイズで死亡。子供は当然母子感染で、全身のリンパ節が腫れている。母子感染でここまで生きているもの珍しいがいよいよリンパ腫を発症したようだ。早々の治療が必要と、病院に紹介状を書く。昨年からケニアでもエイズの治療は無料となった。でも、病院に行くまでの交通費がないと訴える患者が後をたたない。ところで紹介状を書いた子供の父親は不思議と陰性。しかしコンドームをつけないセックスを繰り返している。どうなってるんだ!
業務としては午後を少し回ったころで概ね終了したが、明日からの本格的なクリニックの開設に向けての準備にやや手間取る。それぞれのブースを仕切るベニア板が足りないと言い出す始末。結局、平板と角材を買ってきて早々作ることとなった。今回のキャンプからプムワニ・ヘルス・コミティー(PVHC)のチェアマンが今までのアリから3人の若手の合議制に変わった。どうもアリによるお金の不正流用が問題化したらしい。どこにでもあるような話だが、ことアフリカのNGO活動においては、お金が絡み出すといろんな問題が噴出してくることが多い。このトップの交代により、今回のキャンプは予想よりスムーズに進行しているように思うが、その評価は明日からの本番(一般クリニック)を見てからにしよう。夜は利用可能な薬剤のリスト作りに没頭。

●9月18日
朝、プムワニ村のいつものコミュニティーホールに着いて驚いた。ホールの中は、整然と新しい木の塀で仕切られ、必要な物品の搬入さえすればすぐにでも診療が開始できるようになっているではないか!ニューリーダーたちがどうだと言わんばかりの誇らしげな笑顔で出迎えてくれた。ブース我々が来る前にミーティングを持って今日の段取りを確認し合ったという。昨年までとは雲泥の差である。やれば出来るじゃないかと思いつつも、コミュニティーの再生にかける意気込みが伝わってきてなんだかとても爽やかな気持ちになった。いつものことだが、薬局立ち上げの準備に時間がかかったが(これをちゃんとやりつつ薬品の名前と量を確認しないと処方業務が大変なことになる)10時過ぎには診療開始。そしてもっと驚いたことに、今回から通訳者が固定されている。昨年までなら行き当たりばったりの通訳者で、突然いなくなったり、交代したり落ち着きなかったが、今回は最後まで一人の通訳者がそばに付ききりでいてくれるので、診療がとてもスムーズになった。これも今朝のミーティングでニューリーダーから伝達の有ったことだという。ほんのわずかの昼食の休憩をはさんで夕方まで、クリニック全体で360人以上の患者を診た。個人的には61人の診療をし、うち27人がHIV検査の同意を得た。大輔の針灸のブースも盛況で30人近くになったようだが、お灸がなかなかの人気で、ホールに漂うもぐさのにおいも我々に安らぎを与えてくれた。もっとも外人たちにはどう匂うかは定かではない。終了は7時を過ぎていたが、いつもとは違う心地よい疲労感でプムワニを後にした。

●9月19日
診療にもエンジンがかかり、やっと英語とスワヒリのちゃんぽんに慣れて来た。なんの検査もなく症状のみから類推して薬を処方したり生活指導したりすることは、キャンプに参加した当初はかなり抵抗があったし、そのためのフラストレーションも今思えば大変なものだった。内視鏡検査をして胃潰瘍を確認して初めて潰瘍の薬をだすような日本の医療がいかに至れり尽くせりであるか、こういうなにもないところで初めて感じる感覚であろう。彼らは胃の症状特に胸焼け症状をガスと表現する。MiyaG in Kenya日本でいえばGERD(胃食道逆流症)だろう。そういうときはただひたすら日本から持ってきたガスターを処方する。あちこちの痛みにはとりあえず痛み止め(ペインキラーという)を処方。日本から大量に持って行ったアナロックは今日で底をついた。よっぽど痛み止めが出る証拠だ。今日は76人の患者と一人の往診。診療が終わりに近づくころ、突然スコールのような豪雨が襲ってきた。ケニアに通い始めて6年になるけど、こんな雨は初めてだ。手持ちぶさたの雨宿りのスタッフたちの前でおもむろに取り出した一本のサックス。懲りないみやGはまたやってしまっている。雨音のリズムで勝手な演奏会は続く。

●9月20日
黙々と午前外来をこなした後、近くの小学校に行った。お金のない子供たち、親のいない子供たち、行く当てのない子供たちが通う緊急避難的な場所。先生も半分はボランティアで活動している。小学校毎年の行事で、ボールペンを始めとした学用品やサッカーボールやさまざまな必需品が用意されたが、それに加え今年は寄付で集められたノートパソコン7台が花を添えた。これからはケニアのスラムと言われる地域でもパソコンを駆使出来る技術が求められるし、そういう技術を持った人間に育ってほしいと思う。そんな願いが込められていると信じている。この貧困の中ではどんなに頑張っても感染者の人生は変えることが出来ないかもしれない。しかし次世代を担う子供たちにこそ生き延びるすべを伝授できたらと切に思う。今日のクリニックは、ほぼ昨日と同じような人数をこなして終了したが、今年のHIV陽性率は10%そこそこと通年より少ない。少ないと言っても10%であるわけで、常識的に言って驚異的な陽性率である。それを少ないね、という自分たちの神経こそがおかしいのかもしれない。この拾い上げられた陽性者のフォローこそが我々の任務と感じている。
仕事が終わり、カウンセラーのアジザが今日はサックスを吹かないのかと問われる。なるほど、求められているのならと、外で吹き始めた。いつの間にか子供たちに囲まれ、ケニアの国歌を聞きかじりながらコラボ?いつもはドロップなどのスイーツを配ることでしかなかった子供たちとのコミュニケーションが音楽で成り立つことに新鮮な感動を覚えた。素人のにわか演奏も役に立つと理解することにした。それにしても大輔の撮ったデジカメ写真を見てみると、自分は酒を飲んでるか、サックスを吹いてるかしか登場してこない。ちゃんと仕事をしているところを撮ってもらわなくては留守番の釧路のみんなに申し訳ないではないか。

●9月21日
一般クリニックの4日め。持参した薬もだんだん心細くなってきたが、現地での調達がスムーズでなんとかなりそうだ。今日はなんの行事もなく診療に専念出来た。朝から日没まで自分のブースで80人を超えた。一般診療に混じってHIVの陽性者が時々現れる。昨日陽性が判明したという30代の若者がいた。全身に細菌と真菌の皮膚感染症を発症して薬剤を処方されたがお金がないのでこのクリニックで薬をもらいに来たという。この国では抗HIV薬は無料だがそれ以外の薬剤は有料となる。しかも、抗HIV薬にしたところでただ処方するだけで、なかなかフォローアップがうまくいっていないことが多い。そういう意味で我々のキャンプでのフォローアップの意義を感じる。実際その若者も定期的なチェックを我々ですることになった。昨日の告知をまだ受容出来ていないながらも、少し安心した顔にほっと安堵する。
ちゃんと仕事もしてます。今回のキャンプでずっと通訳をしてくれたのがメンバーの一人、アーシャという30代の3人の子持ちのシングルマザーだった。非常に頭が良く、てきぱきと仕事をする女性だった。しかし彼女には定職がない。いろんな仕事をもらい受けながら一月およそ3000ks(およそ4500円)の稼ぎから住居費1500ksを払ってなんとか生きている。住居を案内してもらったが、電気もなく4畳半もない一室に身を寄せ合って子供と暮らしている。そんな彼女がプムワニヘルスコミティーのメンバーとして全くのボランティアで我々のクリニックで通訳として参加してくれている。その間全く無収入となるわけだ。自分自身の生活を脅かされながらも、地元住民のために活動してくれているという事実を日本のみんなは理解できるだろうか?神が与えた仕事だと彼女は答えた。どうしようもない貧困のなかでなぜそのような考え方が出来るのか。ただの信仰だけの問題ではないような気がする。貧困が精神を圧迫すると考える我々こそが誤解しているのだ。プムワニの彼らは、確かに生活は貧しいけれど心はとても豊かなのかもしれない。そしてそこには日本がとうの昔に捨て去った「互助」という精神がある。

●9月22日
キャンプ最後の日は、大勢の患者で騒然としたなかで終了した。次から次とやって来る人々の問診と診察と処方を淡々とこなし、終わってみれば総数が96人になっていた。これは個人的には過去最高の数かもしれない。クリニック全体では今回のキャンプで1526人の登録があり、新規HIV検査者200人の陽性率は15%であった。加えて60人近くのHIV陽性者のフォローアップ。短い期間の割には密度の濃い診療が出来たと思う。とにかく今年のキャンプはスムーズだった。現地のメンバーたちの関わりが昨年とは全く違う。これも、リーダーの交代とメディカルキャンプの方向性を共有できたからに他ならないと感じる。オレンゴとアリ・ムエンベそれに女性のキャサリンがしっかりプムワニのメンバーをまとめ動いていた。左から3人目稲田先生、右から3人目宮城島、左端が久保大輔彼ら自身定職をもてず、極貧の生活のなかにあるにも関わらず、こうやって積極的に隣人に手をさしのべている。自分のことではない、この地域を良くしたいというただそれだけの純粋な夢。それを知った以上、我々も彼らとの関わりを放棄することは出来ない。一年で実際に関われるのはほんの一ヶ月ほどではあるが、HIVのフォローアップのノウハウやその実践を通して彼らへの協力は惜しまないつもりだ。今後の方向性が見えてきた。イルファーは近い将来このプムワニにオフィスを構えることになろう。そこを拠点にフォローアップ体制を維持しつつ、これも近い将来イルファーの主宰である稲田先生自身がケニアに移り住み、人的資金的援助の主体は、ニューヨークからイルファー釧路とイルファー名古屋そしてイルファー日本に移っていくことになる。忘れてはいけないことがある。自分がこうやってケニアに関わっていられるのも日本に住む愛する人たちや地域の人たちの理解、そしてとりわけ釧路労災病院の小柳院長はじめ同僚たちの協力があってこそであり心から感謝しているとともに、釧路のみんなに、ケニアで今何が起こっているのかを正確に報告する義務を改めて感じている。同じ疲労でも昨年とは全く違う達成感を胸に、そして少々の名残惜しさとともに、明日ケニアを去る。

●9月23日
午前中はホテルの一室で山本先生よりケニアキャンプでのHIV感染状況の報告があった。過去の陽性率の推移をみると5年まえは20%以上であったものが少しずつ減少傾向にあり、今年は15%。これはケニア政府による統計とも一致する。問題は薬剤耐性の増加である。2002年から全く治療をしていない感染者のHIV薬剤耐性が出現、その後増加傾向にあり、このことは中途半端な治療により発生した耐性ウイルスに感染する人が増えてきていることを意味する。中途半端な治療とは、感染者対する不十分な情報やケアーにより薬剤を定期的に飲まなかったりすることが大きい。ただ薬剤をばらまくだけの治療がいかに問題かをこの耐性の増加が物語っている。プムワニ村における性別のHIV感染率(2000年7月から2005年11月)もう一つの大きな問題は、本来欧米に多いサブタイプとして知られているType Bのウイルスが2004年から徐々にこのケニアのキャンプでも見つかるようになったことと、これらの多くがすでに薬剤耐性を持っていることである。このデータの意味するところは、すでに耐性を獲得しているType Bのウイルスを保持する欧米の感染者がケニアで感染を広めている可能性であり、ケニアでもネガティブな意味での感染のグローバル化が進んでいる可能性がある。いずれにしてもナイーブ(治療を受けていないという意味)な感染者が多いはずのケニアで薬剤耐性が進んでいるのは大きな問題であり、山本先生や森下さんは我々のケニアキャンプで得られたデータを元に、ケニアに多いType Aなどのサブタイプウイルスの耐性機序を遺伝学的に解明しようとしている。このケニアキャンプも診療やケアーという実践的な側面と遺伝子学的耐性の解明という学問的な側面を併せ持つことで、大きな意味を持つプロジェクトになる可能性を感じた講義であった。
その後、ナイロビ中心街での青空マーケットで土産を物色。値段交渉をゲームのように楽しみながらイルファー釧路のバザー用品をゲット。久しぶりの中華料理を食べ,夕方、ドバイ行きの機上の人となった。See you next year!

●9月25日(総括)
帰国して初めて見たテレビのニュースでは、何人もの若い女性や子供が簡単に殺されている。何という国だろう。貧困のなかで必死に生きようとしている人々がいるというのに、どうして殺したかわからないというようなコメントをする若者たち。帰国の第一印象がこれではあまりにも寂しい。今、釧路行きの飛行機の中。この時間を利用して、今年のケニアキャンプの総括を考えている。今回のキャンプは「再生」と位置づけた。過去5年10回のキャンプを続けてきて、我々イルファーの意図と地元の意図が少しずつずれてきたのを意識していたが、それが決定的になったのが、昨年のキャンプ。ただ物を運んできてくれる金持ちの道楽と写っていたのか、最初はボランティアとして協力してきた地域のリーダーたちも、だんだんと活動に対する見返りを要求し始めた。そうして我々の去った後の感染者のフォローアップが、結局のところ金がないという理由で十分なされていなかった。これでは、キャンプを続けていく意味がない。昨年は本当にそう思った。何のために自分たちが頑張ってきたのかむなしくさえも思った。しかしもう一度お互いを理解し合い、同じ方向性を持つことが出来ないかと考えた。今年の春のキャンプを中止し7月に稲田先生が単身ケニアに渡り、地元の住民と、国の中枢ともう一度話し合いをもった。最終的な結論は、リーダーの交代とキャンプの再開であった。稲田先生から再開の連絡があったとき、自分ももう一度彼らの意志をこの目で確かめて見ようと思った。だめならさっさと引き上げてこよう。そうして地域のHIV予防啓発にのみ力を注いでいけばいいとも考えた。しかしそうではなかった。毎日のブログを読んでくれたみなさんなら感じたかもしれない。日々の興奮と感動を。私はブログを書くことで精神の高揚を日々報告することにしたのだ。彼らは確実に変わっていた。絶望的な貧困のなかで、絶望的なHIV感染率の高さのなかで、地域を少しでも変えようと一生懸命に動いていた。今までの口先だけの彼らではなかった。今年は75人の感染者のメディカルチェックをすることが出来たが、地元の彼らが必死に情報を流し集めてきた結果であった。これこそイルファーが目指してきた第二段階なのだ。HIV抗体検査による感染者の拾い上げはもう第一目的ではない。これは最近地元で盛んに始まったVCT(自発的に検査を受けるシステム。ケニアでも無料で検査をうける体制が確立している)にまかせてもいい。また昨年から抗HIV薬もケニアで無料になったわけで、NGOがわざわざ運ぶ必要もなくなった。しかし地元の医療機関では薬を処方するけれども、十分なフォローアップがなされているとは言い難いのが現状である。そこにイルファーが関わって行く意義がある。陽性者がどのような状態にあり、適切に服薬しているのか、ウイルス量とCD4がどのように推移していってるのか、生活がどうなっているのか、ウイルス耐性はどうかチェックしていくこと、そしてそのノウハウを地域のコミティーに伝達教育すること。そうして地元の住民が心待ちにしてくれている、無料診療の継続。これがイルファーの活動の二本柱に違いない。なあに、年に二回、無医村に往診に行くと考えれば気が楽になる。こうしてキャンプは間違いなく再生を果たした。